<古東海道>沼部~池上本門寺2016年01月10日

1月の3連休、初詣は普段馴染みのない所にしようということになり、池上本門寺に行って見ることにした。

ただ行ってもつまらないので、古代の東海道(古東海道)を辿ってみた。

僕らが今家族で歩いている旧東海道は江戸時代に幕府によって整備された道。

それに対して古代律令国家の官道として制定された東海道を便宜上、古代の東海道とか古東海道とかと呼んでいる。

だから正確な道筋は不明だが、だいたいの見当はつくらしい。

今回僕らは荻窪圭『東京古道散歩』(中経の文庫)の比定するルートに従って沼部から池上本門寺までを歩いて見た。




東急多摩川線沼部駅を降りて線路の西側に踏み切りを渡る。

二つ目の角を右に曲がって南に向かう。

古東海道
これが古東海道だ。

ちなみに駅のすぐ西側は多摩川の土手で、往古はそこに丸子の渡しがあったと思われる。




六郷用水
すぐに新幹線のガードをくぐると古東海道は江戸期に造られた六郷用水路沿いの遊歩道になる。




道の左手は崖
道の左手(東)は崖のように切り立った壁面で、右手(西)は土地が下がっている。

多摩川に向かって河岸段丘を形成しているのがよくわかる。

またこの辺りは神社仏閣が多いらしく、そこらじゅうにそれらしい建物や緑を見ることができる。

これもここに古代からの集落があったことの証だろう。




ふと住居表示を見ると「田園調布」とある。

ああこれがあの有名な田園調布ですか。

なるほど閑静な住宅街だ。

さっきからお腹が空いたので昼食が取れる店を探しているのだが、民家ばかりで食べ物屋どころか物を売る店というものがまるで見当たらない。

この辺の人の生活ぶりは全く見当もつかない。




そんな田園調布を歩いていると東急不動産を批判したのぼりがたくさん立っている一角に行き当たった。

そののぼりの断片的な文句を繋ぎ合わせると、どうやらこの辺りで東急不動産の大きな建設計画があってそれがこの一帯の環境や景観を破壊するということらしい。

建設現場
すると左側に広大な建設現場が現れた。

どうやらこれのことらしい。




結局何ら食べ物にありつけないまま環状8号線にぶつかった。

すぐ近くにあったコンビニのイートインで昼食を済ませた。

この辺りの人、外食はどうしてるんだろう?




光明寺
昼食の後、光明寺に立ち寄る。

奈良時代創建の古刹で、境内には古墳や往古の多摩川の流路跡と言われる池があるそうだ。

荒塚
確かに5~6世紀の古墳である荒塚は何とか見つかった。

しかし何の案内や説明もなく、『東京古道散歩』の写真がなかればまずわからなかっただろう。

池などは見当たらなかった。

境内にそういう説明の類は全くなく、坊さんの姿も見えない。

一応お参りをしようかと思ったが、賽銭箱すらなかった。

今時随分とストイックな寺だ。




環8を渡ってまたしばらく六郷用水路沿いの古東海道を歩く。

路地
途中から車の通れない路地になる。

左側は崖のような斜面。




馬頭観音
国道1号線も超えて馬頭観音の前を通り過ぎる。

萬屋酒店
やがて萬屋酒店の交差点に差し掛かる。

池上本門寺
そこで左を向けば目指す池上本門寺が見えて来る。

さっきまで人通りもまばらな道を歩いていたのが一転して初詣客で賑わっている。

加藤清正が寄進したという石段を登るとここが武蔵野台地の端っこであることを実感できる。




初詣を済ませ、国道1号線を西馬込駅まで歩いて家路に就いた。

この先この古東海道を歩くかどうかは未定。

諏訪原城2015年12月30日

昼食をとった喫茶こもれびを出て、旧東海道を金谷方面に少し戻ると駐車場があってその脇に諏訪原城への入り口を示す案内板が建っている。

そして感心なことに入り口にはポスト状の物が建っていて、透明のフタを開くとB4三つ折のパンフレットが置いてある。

オールカラー印刷で縄張り図や写真もある。

お城を見る時にこの縄張り図があるのとないのとでは全然違う。

こんな風に現地で調達できるのは本当にありがたい。




外堀
城内に入ると巨大な堀に目を奪われる。

外堀
深さといい、幅といい、まるで地割れのようだ。

この弧を描いた堀が二の曲輪中馬出の跡らしい。

馬出というと単なる馬の出入り口くらいに思っていたこちらの認識を吹き飛ばす巨大さだ。




土橋
土橋を渡って二の曲輪に向かう。
外堀
橋の両側の外堀もかなりの迫力だ。




鹿
だだっ広い原っぱとなっている二の曲輪を歩いていると女房が鹿に気付いた。

そっちを見るとそれらしい哺乳動物がこちらに尻を向けて草を食んでいる。

人の気配で逃げ出さないところを見ると、かなり人間慣れしているようだ。




内堀
二の曲輪側の斜面は緩く、本曲輪側はほぼ垂直に掘られた内堀を土橋で渡って本曲輪に向かう。

入り口にこんもりとした土の盛り上がりがあって、ここに本曲輪虎口という標柱が建っているのだが、それにしては人が通る通路がない。

400年の間に埋まってしまったのだろうか。
本曲輪虎口跡
仕方なく土塁を超えて本曲輪に入った。




牧ノ原台地の端っこに造られたこの城は扇状の縄張りになっている。

その扇の要部分がこの本曲輪に当たる。

天主台地
中心に向かって土地が盛り上がっていて、そこに建てられた説明版には

天主台地

この城は山城であり天守閣はなく二層からなる矢倉(櫓)があり物見が常駐しており敵の動きを監視していた。


とある。

「天主」の表記は安土城だけではなかったか?

そもそも天守がないのになぜ「天主台地」なのか?

と疑問はあるが、ここに物見櫓があったのは本当だろう。




本曲輪の土塁
本曲輪周縁の土塁の上を歩く。

すると樹木が途切れて眺望が開ける。
本曲輪からの眺望
大井川はもちろん、駿河湾から伊豆半島までうっすらと望むことができる。

素晴らしい眺めだ。




諏訪原城は武田勝頼が高天神城攻略のための拠点として天正元年(1573)、馬場美濃守信房に命じて築いた城。

目論見通り高天神城は奪取したが、天正3年の長篠の戦いで敗れて家運が大きく傾くと家康の攻勢にさらされてその年のうちに落城。

家康はこの城を牧野城と改め、増強・改修を加えたため現在見られる遺構は武田と徳川が混在しているということだが、さすがにそれを見分けるほどの眼力はない。

だいいち徳川の城は今までに江戸城と駿府城くらいしか見てないんじゃないか。

天正10年の武田家滅亡に伴ってこの城の重要性も薄れて天正18年頃に廃城となった。




カンカン井戸
本曲輪から折り返し、内堀の中のカンカン井戸や城の名前の由来となった諏訪神社を見て二の曲輪大手馬出から城を出る。

見応え充分の城だった。

城内の樹木が伐採されていて見やすかった。

現在整備工事中のようだったが、その工事がこの城の生々しい魅力を損なわないことを祈りたい。

遺構残存度4巨大な堀や馬出が良好に残存
歴史的重要度4武田・徳川の争奪戦
景観4本曲輪からの眺め
案内充実度4入り口のパンフレット

東海道<第27日>島田~金谷2015年12月30日

10:00AM、大井川公園バス停に降り立ち、今日の東海道ウォークを始める。




小心な徳川幕府のせいで誰もが難渋を強いられた大井川を大井川橋で渡る。

大井川
現代の大井川はそれほど深くないように見える。

大井川の川原
ただ川原には大水で上流から根こそぎ流されて来たと思しき流木がそこかしこに倒れたまま半ば埋まっていた。




対岸の茶畑
対岸の丘の斜面はびっしりと茶畑で埋まっている。

今日これから上る金谷坂はあの丘の中にあるらしい。




旧東海道
橋を渡りきって堤の上を南に向かい、旧東海道が始まるところで堤を下りる。

すぐに「金谷宿川越し場跡」という案内板の建つ小公園に達する。

かつてはこの辺りまで川原だったらしく、このちょっと先に川越人足の詰め所などが建ち並ぶ河原町が形成されて金谷宿の一部となっていた。

河原町
現在ではひっそりとした住宅街になっている。




そこから少し歩くと元々の金谷宿に入る。

河原町ができてからはこちらを「金谷本宿」と呼ぶようになったらしい。

金谷宿
なだらかな坂道に商店が建ち並んでいて、宿場の色々な施設の跡地にはまめに案内板を建てて丁寧に説明している。




佐塚屋本陣跡
そのうちの一軒、「佐塚屋本陣」は現在「佐塚書店」になっていた。

中山道と東海道を歩いて色んな本陣跡を見て来た。

一番多いのは駐車場、続いて医者・金融機関というところだったように思うが、本屋というのは多分初めてだ。




金谷坂
その先旧道は東海道本線で分断されているので、ガードをくぐって再び旧道にアクセスすると一気に道幅は狭く、勾配も急になる。

金谷坂の石畳
交差する車道を横断するとすぐに金谷坂の石畳が現れる。




昼なお薄暗い
鬱蒼と生い茂る樹木で昼なお薄暗い山道を進む。

この石畳の石は球状に丸みをおびていて大そう歩きにくい。

足元から目が離せない。




その名前から、受験生に人気の「すべらず地蔵」を右に見て通り過ぎるとやがて樹木が途切れて空が広がり、茶畑の広がる平原に出る。

茶畑
12月の陽光の下、茶畑を左に見ながらアスファルトの旧道を歩く。




右側の「諏訪原城」を通り過ぎた所にある「こもれび」という山小屋風の喫茶店で昼食を取ることにする。

喫茶こもれび
思いのほか雰囲気のいい店でまったりとした時間を過ごした。




その後諏訪原城を見学したところで(2:30PM)、諏訪原城跡バス停で次バスの時間を見るとあと2時間近くもある。

僕と女房の二人だけなら迷わずこの先の小夜の中山峠を越えた先にある次のバス停まで4kmほど歩くところだが、娘と女房の兄貴はかなり疲れてしまっているようだったので、今日の東海道ウォークはここまでということにして、金谷駅まで歩いて戻った。

東海道<第26日>藤枝~島田2015年12月29日

女房の兄貴の運転で新東名高速道路を徹夜で走り、これから2泊する藤枝パークインホテルの駐車場に車を停める。

そこから歩いて10分ほどで旧東海道と国道1号線と藤枝駅に向かう通りが交差するややこしい交差点に達する。

今回のスタート地点
ここが今回のスタート地点だ。



10:22AM、今日の東海道歩きを始める。

しばらくは国道1号線の南側を平行して進む。

松並木
所々に松並木の名残が残っている。

旧東海道らしい景観だ。



一旦国道1号線と合流した旧東海道はすぐに東海道本線六合駅を迂回するように北に分岐してまたすぐに合流する。

その合流地点近くの「五味八珍」という浜松餃子で有名な中華レストランチェーンで昼食を取る。

その餃子、外がカリッとしていて中はモチっとしている皮の食感はとてもいいのだが、具自体に味が付いていないのが僕には物足りなかった。



監物川
歩きを再開してすぐ、歩道橋をくぐる時にほんの小さな水路を渡ったが、その水路に「監物川」という名前が付いていた。

歴史的な謂れのありそうな名前なので当たりを見回すと道の反対側に説明板が建っている。

それによると、これは田中城主であった水野監物忠善が大井川の水を引き込む為に造った水路だそうだ。

これに感謝したこの地の農民がこの水路を監物川と呼ぶようになったらしい。



島田宿一里塚跡
監物川から5分ほどで旧東海道は国道1号線から左に分かれ、さらに15分ほど歩くと道路右に島田宿一里塚跡の標柱があって島田宿に入ったことが知れる。

島田宿
無残なまでのシャッター通りだ。

本陣跡
と思いながら歩いていると、本陣跡を取り囲む一角だけが再開発されたかのように洒落た町並みになっていた。



大井川川越遺跡
本陣跡から40分弱で島田宿大井川川越遺跡という一角に達する。

つまりここは旧東海道が大井川に突き当たる地点だ。

社会の発展よりも自家体制の安泰を優先する徳川幕府は西国から江戸に攻め上られるのを警戒して大井川に橋を架けなかった。

そこでここにはこの川を渡るための料金所や川越人足の詰め所などの施設が建ち並ぶことになる。

現在ここには往時の建物が現存していたり復元されたりしている。

大井川川越遺跡
これらが店を開いていて観光客が行き交っていれば往時の賑わった雰囲気が味わえたのかも知れないが、あいにくどこも既に年末年始の休業に入ってしまっていて戸は固く閉ざされている。

従って観光客の姿もなく、12月の西日に伸びる自分たちの影ばかりが目立つうらぶれた通りになってしまっていた。



大井川の河川敷
江戸時代初期に造られた島田大堤という土手を超え、現代のコンクリート堤防の上に立つと広大な河川敷が広がっている。

特に船着場などの遺構を示す物もここからは見当たらないのでこのまま堤の上を北に向かい、大井川公園前というバス停を本日のゴール地点として藤枝のホテルに向かった。

二俣城2015年10月11日

我が家の3人プラス女房の両親と兄貴の6人でやって来た家族旅行。


最初に向かったのは浜松市の二俣城。


小さな山の中腹の駐車場に車を停める。


二俣城入り口
「史跡 二俣城址」という石柱のある緩い上り坂を歩く。


堀切
右手の谷は堀切だ。


喰い違い虎口
程なく喰違い虎口から本丸に入る。


本丸跡
削平地の隅っこに天守台が見える。

山城の天守台とは珍しい。

しかも石垣だ。


天竜川
天守台に上ると、この城を天然の要害たらしめた天竜川が樹木の隙間からわずかに見える。


今川義元亡き後、武田と徳川の草刈場と化した遠江のこの城では両者の凄まじい争奪戦が繰り返された。

長篠の戦いで惨敗した武田が弱体化して以降は徳川方の城となった。


家康の長男・信康が武田との内通を信長に疑われて切腹に追い込まれたのもこの城だ。

するとさっきの天守台の上がその舞台だろうか?

そこで信康が切腹した天正7(1579)年時点でこの城に天守が上がっていたかが問題になって来る。

戦国期の城に天守が登場したのは安土城が最初だという説がある(表記は天主)。

信長による安土城の建造も天正7年だから、その時点で二俣城に天守があったとは考えにくい。

しかし最初の天守は松永久秀が永禄3(1560)年に築いた多聞山城という説もある。

それならば19年後の二俣城に天守があがっていても不思議はない。


天守台の石垣
この天守台の野面積みの石垣を見ていると天正期には存在していたように思える。

すると信康はこの上で無念の腹を切った訳だ。


遺構残存度4珍しい山城の石垣天守台
歴史的重要度4武田vs徳川。さらに信康切腹
景観3樹木で眺望開けず
案内充実度3現地案内板はまずまず