世田谷城2017年01月04日

初詣に豪徳寺へと行く途中、寺の南に回って世田谷城址公園に向かう。

土塁の跡か
途中私有地に土塁らしき土の盛り上がりが見られた。



そこからさらに進むと住宅地に忽然と小山のような公園が現れる。

ここが城址公園で、ダイヤモンド型と推定される城域の南の角にあたる。



曲輪跡
小山に登るとその上に削平地があって一応ここが曲輪だったであろうことは見てとれる。

堀跡
堀や土塁の跡らしき物も見られる。

しかし公園として整備された分、遺構なのか後世に改変された地形なのか判断がつきにくい。

私有地の遺構
むしろ金網で仕切られた私有地の方が野ざらしな分だけ面白い物がありそうに思えた。



この公園の辺りはいわゆる“詰の城”で、豪徳寺がかつての屋敷跡らしい。

豪徳寺の土塁の跡
そこで豪徳寺に行って見ると確かに土塁の跡らしき物が見られた。



世田谷城は清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城。

15世紀後半には太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として栄える。

その後小田原北条氏と縁戚関係を持つが、天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡に伴い吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となった。



遺構残存度2私有地が見られれば
歴史的重要度2実戦経験はなし
景観2住宅地の憩いの公園
案内充実度2現地案内板の分はわかり易い

瀧坂道2017年01月04日

このところ我が家の初詣は都内の旧道を歩いて古刹を訪ねるのが恒例となっている。

今回は渋谷道玄坂と甲州街道を結ぶ「瀧坂道」を歩いて豪徳寺を目指す。



渋谷駅前
まずは渋谷駅のハチ公前に降り立つ。

目の前には渋谷109ビル。

完全に10~20代女性向けのファッションビルとなっている現在では想像できないだろうが、僕がスポーツ用品関係の仕事をしていた30年前はこのビルに野球メインのスポーツ用品店が入っていた。

恐らくは元々この地でスポーツ用品店を営んでいた地主がそのままビルに入ったのだろう。

ビルのティーンズファッション化が進むに従ってミスマッチも深刻化し、遂に倒産。

その時僕も商品を引き上げに行ったのだが、この経験が後に『手形が落ちない』という曲の元になった。



道玄坂
道玄坂を登りきると道玄坂の由来を書いた石碑と標柱が建っている。

そんな物に目を止める人など誰もいないが、それによると北条に滅ぼされた渋谷氏の一族の大和田道玄がこの地に道玄庵という庵を営んだのが始まりだそうだ。

瀧坂道入り口
右側の交番と、渋谷にしてはオシャレ度の乏しい床屋の間の細い道が瀧坂道だ。

神泉へ
すぐに静かな住宅街となって湾曲しながら一気に高度を下げる。

狭い道だが交通量は多い。

下り切った辺りが円山町で、東京電力OLが殺されたアパートはこのすぐ近くだった。

円山町
ここはかつて花街だったのが宅地化し、その生活圏をラブホテル群が侵食するといういびつな構造の街となっている。

ここで現代の怪談のような事件が起こった訳だ。



淡島通り
その後小さなアップダウンを繰り返しながら山手通りを超えて現代の淡島通りとなる。

三宿神社
さらに進むと左手に室町時代の多聞寺砦の跡があるというので行ってみたが、緑地公園と三宿神社があるだけで遺構らしき物はなかった。



右が瀧坂道
瀧坂道が淡島通りを右にそれるとすぐに環七に突き当たる。

その手前右のガストで昼食にする。



昼食後瀧坂道に戻る。

くねくねと進む瀧坂道
道は閑静な住宅街をくねくねと進む。

交差する何でもない路地に鎌倉街道の伝承があったりする。

世田谷城跡に寄り道して豪徳寺に入った。



豪徳寺
豪徳寺は井伊家の菩提寺である。

境内には桜田門外に斃れた井伊直弼の墓もある。

そのお墓の場所はわかりやすく案内されていた。



今年の大河ドラマは井伊直虎という人らしいが、それに関する物は境内には一切見当たらなかった。

真面目な寺だ。

忘年会ライブ2016年12月23日

先日の12月10日土曜日に東洋大学軽音楽部FreewayのOBが集まる忘年会ライブが、武蔵小金井SOLIDでありました。

僕も一人で演奏しました。

その時の動画です。









上原城2016年12月18日

かつてせっせと特急あずさで中山道歩きに通っていた頃、あずさの車窓から見える「上原城跡」という看板がずっと気になっていた。

今日はその上原城にやって来た。



上原城入り口
薄暗い山の中腹にある案内板の脇から城内に進む。

駐車場には軽トラックを中心に何台もの車が停まっている。

左側は堀の跡とも見える崖になっている細い通路を進むとわいわいと人の声が聞こえてくる。

三の郭跡
右にカーブするとそこは金比羅神社になっていて氏子の皆さんが掃除をしていた。

ここはかつての三の郭だ。



二の郭跡
神社の裏手に回るとそこが二の郭で巨大な物見岩がある。



主郭跡
さらにその背後の斜面をのぼると以外に広い削平地に出る。

ここが主郭だ。



上原城は名門・諏訪氏が武田信玄に滅ぼされるまで本拠とした城だが、それにしてはちょっと小ぶりな印象だ。



諏訪氏館跡
車で山を下るとふもとに諏訪氏館跡があった。

ふもとの居館と山上の詰めの城。

なるほど典型的な中世の山城の構造だ。



遺構残存度3中世の山城を今に伝える
歴史的重要度3諏訪氏の本拠
景観4三の郭からの諏訪地方の眺め
案内充実度3お城へのアクセスがわかりにくい

高遠城2016年12月17日

カーナビの指示に従って急な坂道を上って行くと右手に広大な空き地が現れる。

勘助曲輪
これが駐車場で、往時の勘助曲輪だ。

広過ぎてどこに停めたものかと迷いながらとにかく駐車場の隅っこに車を停めて歩き始める。



大手門跡
もと来た道を少し戻るとそこに大手門跡の石碑が建っている。

城下を見下ろすロケーションだ。

枡形跡か
斜め向かいの民家の前に不自然に突き出た石垣は枡形の跡かも知れない。



藩校進徳館
駐車場の向かいの三の丸には藩校進徳館がある。

幕末に建てられた茅葺の建物が残っている。

藩校の遺構というのは初めて見たかも知れない。

駕籠が直接乗りつけられそうな玄関には格式が感じられる。



二の丸
二の丸には桜の木が所狭しと植えられている。

現在高遠城は桜の名所として有名である。

シーズンともなればあの広い駐車場が一杯になるのだろう。

空堀
それでも二の丸を囲む空堀には城跡らしい野ざらし感が残っている。



高遠城は武田信玄によって築かれた。

信玄の死後、織田信長軍の猛攻によって落城する。

しかし織田軍5万3000に対して城主・仁科盛信(武田勝頼の弟)以下3000が果敢に迎え撃ってほぼ全滅したという壮絶な落城は、裏切り・逃亡が相次いで自壊した武田家にあって唯一武門の意地を見せた戦いだった。

今この静かでのどかな城跡でその凄惨な落城絵図を想像するのは困難だ。



ところで仁科盛信は女優の仁科明子のご先祖だそうだ。

そういえば以前みた『茶々 天涯の貴妃』という映画では元夫の松方弘樹が織田信長を演じていた。

つまり松方は自分の元女房のご先祖を攻めていたわけだ。

まさか演じながら

「この時根絶やしにしておけば・・・」

なんて考えていたり・・・するわけないか。



遺構残存度3学校や桜で改変
歴史的重要度4武田家滅亡間際の最後の意地
景観4城下の眺め
案内充実度3もう少しこまめにあるとありがたい




お城のすぐ南に建つ伊那市立高遠町歴史博物館に大人400円を払って入場すると「絵島囲み屋敷」という物を見ることができる。

絵島とは江戸中期の大奥の最高位にあたる大年寄であった女中。

役者・生島新五郎との恋愛スキャンダルで失脚してここ高遠に流罪となる。

奥女中は上様(将軍)以外との恋愛はタブーなのだ。

まるでAKBだ。

絵島囲み屋敷
その絵島が高遠で暮らした屋敷がここに復元されているのだ。

パンフレットの説明には「牢獄のような囲み屋敷」とあるが、現代の東京で暮らす僕の感覚では立派な一戸建て住宅だ。

こんな屋敷で暮らしてみたいとまで思ってしまった。