横須賀城2017年02月26日

掛川市南部にある横須賀城は異色の城である。

石垣に丸い天竜川の川原石が使われているのだ。

櫓門跡の石垣
駐車場を出てすぐの本丸南櫓門跡の石垣が普通の城とは全く違う。

違い過ぎてお城という感じが余りしない。

あるはずの枡形もよくわからなかった。



天守台跡
意外に広い本丸には天守台があり、発掘調査に基づいて天守の礎石と縁石が復元されている。



本丸南東の高石垣
本丸南東にも丸石の高石垣が復元されている。

しかし発掘調査の通りであっても、復元に現物の生々しさは望むべくも無い。



三日月堀
三日月堀の脇を通り、さらに東に向かうと東大手門跡が民家と民家の間に挟まれているのに達する。

東大手門跡
内側から見ると枡形の跡が見てとれた。



北の丸に向かう
本丸と、現在は竹やぶとなっている三の丸の間を通って北の丸に向かう。

松尾山
北の丸には松尾山という小山がある。

ここも重要な防御施設だったらしい。

土塁跡
土塁の跡などが残っている。



堀の跡らしき道
城の南を通る細い道は堀の跡と思われる。

さらに1本南の道がかつての街道で、そこが入り江の海岸線でもあったらしい。

今では干拓されて平坦な農地がはるか南まで続いている。



横須賀城は武田勝頼に奪われた高天神城奪回のために徳川家康が大須賀康高に築かせた。

その後城主をくるくると替えながら廃藩置県まで続いた。

どの時点で石垣に川原石が使われたのかはよくわからない。



遺構残存度3丸い石垣と各曲輪
歴史的重要度3高天神城奪還の城
景観3丸い石垣の珍景
案内充実度3説明版充実。縄張り図があれば

掛川城2017年02月25日

掛川城は今川氏の城であった。

今川義元が桶狭間で敗死すると、跡を継いだ氏真が本拠地の駿府を武田信玄に追われてここ掛川城に立てこもる。

その掛川城を攻めて開城させたのが徳川家康。

かつて人質として養われていた今川を攻める家康の心中はどうだったのだろう。



それはともかくその後豊臣秀吉の天下統一に伴って家康が関東へ移封となると掛川には秀吉子飼いの山内一豊がやって来る。

ご存知、後のわが故郷高知・土佐藩の初代藩主。

この時に整備した城と城下町が現在の掛川の基盤となっている。



大手門と天守
区画整理の都合で実際の位置よりも50m北に復元された掛川城の大手門の前に立って見る。

遠くに天守が見える。

掛川城の天守は幕末期の地震で損壊して取り壊されたままだったが、平成6年に市民の寄付金で復元された。

掛川から土佐に移った一豊が築いた高知城の当時の記録に「遠州掛川之通(えんしゅうかけがわのとおり)」とあることから、現存する高知城を参考にして復元したそうだ。

ここで手前味噌を承知で言わせてもらうなら、今同時に見えている大手門と天守の2ショット、高知城ではこれがどちらも復元ではないモノホンで楽しめる。



番所
大手門を入ってすぐの番所は廃城後民家として使われていたのを、大手門の復元に合わせて元の位置関係(つまり実際よりも50m北)になるように移築整備されたものだ。



逆川
水掘りの役目を果たした逆川に沿って天守方面に歩く。

往時には存在しなかった橋を渡って掛川城公園に入る。

四足門
復元された四足門をくぐると

三日月堀
三日月掘と

十露盤堀
十露盤掘があり、

十露盤堀
左には三の丸から移築された太鼓櫓がある。

その先の石垣の切れ間から本丸に入る。

本丸
本丸は現在お花畑になっている。

発掘調査の結果から城になる以前は墓地であったことがわかっている。



本丸
本丸から天守丸へは登閣路という階段で登る。

日本初の木造による本格復元天守に登ってみる。

昭和期のほとんど無意味なコンクリート天守とは明らかに一線を画する事業である。

その後各地で木造復元の機運が盛り上がったことを考えるとその意義は大きいと評価できる。



武者隠し
階段の途中に武者隠しがあり、そういえば高知城にもこんなスペースがあったような気がする。

富士山
望楼からは富士山をおがむことができた。



二の丸御殿
天守の後は二の丸御殿へ。

城郭御殿としては全国に4つしか現存しない、これは掛け値なしに貴重な遺構である。

大書院と次の間
格式のある玄関や大書院、

御用人部屋
陰影のある御用人部屋などで往時のお城の日常とでもいうものをイメージした。

工事用資材
ただ現在補修のための工事中で、三角コーンなどの工事用資材が至るところに並んでいるのが興ざめではあった。

もちろんこれは仕方が無い。



ところでこの城を築いた一豊、武将としてはB級ながら時勢を読む目だけはあったらしく、関が原では徳川方につく。

ついただけではなく、西上する家康にこの掛川城をまるごと明け渡して提供までしている。

秀吉は家康が西に攻め上るのを防ぐためにこの地を一豊に与えたのに全く意味が無かったわけだ。

結局これが功を奏したのか、実際の戦場では特に武功もなかったのにもかかわらず掛川5万石から土佐20万石へと飛躍を遂げる。



遺構残存度4貴重な二の丸御殿と木造復元天守
歴史的重要度3今川氏真籠城と一豊の家康接待
景観4城のある都市景観と天守からの眺望
案内充実度4随所に写真付きの説明板

東海道<第28日>金谷~日坂~掛川2017年02月25日

一昨年12月以来の東海道歩き。

前回は金谷の坂を登り切ったところにある諏訪原城までだったので、今回はそこから掛川まで歩く予定。



女房の兄貴の運転する車を今夜宿泊する「スマイルホテル掛川」の駐車場に停め、掛川駅からJR東海道線で2つ目の金谷へ。

つまり今日のゴール地点からスタート地点まで電車で移動したわけだ。

ふた駅といっても駅と駅の間が随分と長く、これを今日これから歩くのかと思うと先が思いやられる。



金谷駅からはタクシーで諏訪原城へ。

旧東海道を歩き始める
8:14AM、丸1年振りに東海道を歩き始める。



復元の石畳
いきなり石畳の下り坂だ。

比較的整然とした石畳は近年の復元だろう。

案内板を見る
すると10分ほどで案内板が現れて、ここから先は江戸時代後期の石畳だと教えてくれた。

その石畳を歩いて見る。

確かに石畳はゴツゴツ感が増している。

歩き易くはない。

車道と接する旧道
石畳自体は風情があっていいのだが、並行する車道が常に見えるためタイムトリップ感は乏しい。



菊川が見えてきた
下り坂の先に集落が見えてきた。

石畳が終わって平地に下りると、早くもヒザが笑っている。

時刻は8:30AM。

歩き始めてまだたったの15分だ。



菊川
ここは江戸時代には金谷と日坂の間に位置する「間の宿」菊川

かつては行き交う旅人に食事や休憩などの便宜を図ったこの地で諏訪原城からの下り坂は底を打ち、上りに転じる。

急坂
それも相当に急な坂だ。

中山道の塩尻峠のようだ。

小2の娘は早くも音を上げ始める。

茶畑
左手には茶畑が広がる。



緩い上り坂
急な坂は終わっても緩い上りがダラダラと続く。

娘を何度も休ませながら少しずつ進む。

9:20AM、やっと坂を登りきったらしい所に到達した。

ここが小夜の中山峠だ。



接待茶屋跡
街道の左側の空きスペースは鎌倉時代からあったという接待茶屋跡

夜泣き石
その向かいの久延寺には夜鳴き石なる巨石が鎮座している。

その昔お石という妊婦が賊に殺され、その魂魄がこの石に乗り移って夜な夜な泣き声を上げたとか。

この説明の出典は滝沢馬琴『石言遺響』。



茶亭跡
またこの久延寺では慶長5年(1600)、会津の上杉討伐に向かう徳川家康を掛川城主だった山内一豊が茶をたててもてなしている。



9:34AMに久延寺を出る。

小夜の中山の茶店
茶店が何軒か並んでいるが、時間が早過ぎるのか開いていない。



遠州灘が見える
茶畑の間を通る下り坂の彼方には遠州灘の水平線が見える。

中山道にはない、東海道ならではの景観だ。



小夜鹿の一里塚
9:38AM、小夜鹿の一里塚を過ぎる。

するとこの辺りから小夜の中山を詠んだ歌碑がいくつも現れる。

ここは随分と有名な歌枕だったらしい。

不勉強でひとつも知っている歌はなかった。



緩やかな坂を下る
雲ひとつ無い空の下、歌枕としても高名な景勝地を気分良く歩く。

ただ絶え間なく吹き付ける風が冷たい。



涼みの松
10:07AM、芭蕉の句碑や、芭蕉が休んだ涼みの松(2代目)などが集められた街道右手の小公園で小休止。

妊婦の墓
向かいの茶畑の中に妊婦の墓がポツンと建っている。

説明を読むと、「松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生まれた子)を葬った所」とある。

さっきの久延寺の説明版より妙にリアルになっている。

馬琴はこの墓を見て『石言遺響』の着想を得たのではないだろうか。



夜泣石跡
再び歩き始めて10分ほどすると街道左手に夜泣石跡が現れる。

夜泣き石は元々この道の真ん中にあったらしい。

ということはここが犯行現場ということか。

そういえば確かに日当たりのいいこの辺りの街道筋でここだけが両側に木々が鬱蒼としていて薄暗い。



民家が見え始めた
さらに街道がうねうねダラダラと下って民家などがポツポツ見えるようになったかと思うのも束の間、
急激な下り坂
途中からとんでもない急勾配の下り坂となる。

アスファルト舗装をしてあるということは車も通るのだろうか?

坂の上の方の民家では軽自動車が停まっているのをいくつも見たが、軽でこの坂を登れるとはとても思えない。



この急坂が緩やかになって自動車道をくぐると日坂宿に入る。

静かなたたずまいの民家の軒先に屋号を書いた表札が架かっている。

本陣跡
すぐにだだっ広い公園の前に出るが、ここが本陣跡。



日坂宿
宿場内には旧い建物が点在する。

伊藤文七邸
11:20AM、その中の1軒、伊藤文七邸脇のベンチで昼食にする。

各自牧之原サービスエリアで買ったおにぎりやサンドイッチをパクついた。



川坂屋内部
昼食後、旅籠「川坂屋」を見学。

ここは格の高い旅籠だったらしく、上段の間もある。



高札場
川坂屋を出て緩い坂を下って達する橋の手前に高札場下木戸跡があって、日坂宿は終わる。

12:02PM。

地味ながら雰囲気のある宿場だった。



20分ほどで国道1号線に合流する。

事任八幡宮
その地点に坂上田村麻呂が興したという事任(ことのまま八幡宮の前を通り過ぎるとあとは退屈な国道が延々と続く。

娘も疲れてペースは一向に上がらない。



伊達方一里塚
14:23PM、馬喰橋を渡ったところに伊達方一里塚があった。

ひとつ手前の小夜鹿の一里塚を通過したのが9:38AMだったので、4km進むのに休憩込みとはいえ4時間近くもかかっている。



間もなく掛川の城下に入る。

しかしそのためには新町七曲りなるものを通過しなければならない。

これは掛川城下を整備した山内一豊が、外敵の城下への侵入を難しくするために設けたジグザグの道筋のことである。

それではB級戦国武将、一豊と勝負だ。



結論から言うと僕らは一豊に惨敗を喫した。

最初に曲がるところこそわかったものの、その次に折れる地点を見落として引き返し、さらに1箇所見落としたせいで七曲りのゴール地点がわからずまた引き返すという失態を演じてしまった。

その上で正しい道筋を紹介すると、

まず左に折れる
まずはこの歩道がだだっ広いT字路を左に折れ、

右の路地に入る
民家の塀が途切れたところの路地を入り、

常夜灯の角を左
突き当たりに常夜灯のある角を左に折れ、

工場に突き当たって右
工場の敷地に突き当たって右折、

魚林の突き当たりを右
左手に「魚林」という看板が見えるとすぐに突き当たるので右へ。

ジグザグは道なり
その先のジグザグは道なりに進み、

塩沢機械店を左
「塩沢機械店」の角を左折。

シミズ写真館を右
「シミズ写真館」横の駐車場を右折、

和菓子屋の前を左
「桂花園」という和菓子屋の前の通りを左に曲がって元の道筋に戻る。

角を曲がる度に一豊の小心さを体感できる。

その一豊にここまでキリキリ舞いさせられるとは。



掛川宿
さてやっと入った掛川のお城下はちょっと寂しいシャッター通りだった。

宿場としての形跡も見当たらない。

掛川城大手門
3:27PM、右手に掛川城の大手門が見えたあたりの交差点で今日の行程を終了してホテルに向かった。

明日は掛川城を始めとする観光にあてる予定。

世田谷城2017年01月04日

初詣に豪徳寺へと行く途中、寺の南に回って世田谷城址公園に向かう。

土塁の跡か
途中私有地に土塁らしき土の盛り上がりが見られた。



そこからさらに進むと住宅地に忽然と小山のような公園が現れる。

ここが城址公園で、ダイヤモンド型と推定される城域の南の角にあたる。



曲輪跡
小山に登るとその上に削平地があって一応ここが曲輪だったであろうことは見てとれる。

堀跡
堀や土塁の跡らしき物も見られる。

しかし公園として整備された分、遺構なのか後世に改変された地形なのか判断がつきにくい。

私有地の遺構
むしろ金網で仕切られた私有地の方が野ざらしな分だけ面白い物がありそうに思えた。



この公園の辺りはいわゆる“詰の城”で、豪徳寺がかつての屋敷跡らしい。

豪徳寺の土塁の跡
そこで豪徳寺に行って見ると確かに土塁の跡らしき物が見られた。



世田谷城は清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城。

15世紀後半には太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として栄える。

その後小田原北条氏と縁戚関係を持つが、天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡に伴い吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となった。



遺構残存度2私有地が見られれば
歴史的重要度2実戦経験はなし
景観2住宅地の憩いの公園
案内充実度2現地案内板の分はわかり易い

瀧坂道2017年01月04日

このところ我が家の初詣は都内の旧道を歩いて古刹を訪ねるのが恒例となっている。

今回は渋谷道玄坂と甲州街道を結ぶ「瀧坂道」を歩いて豪徳寺を目指す。



渋谷駅前
まずは渋谷駅のハチ公前に降り立つ。

目の前には渋谷109ビル。

完全に10~20代女性向けのファッションビルとなっている現在では想像できないだろうが、僕がスポーツ用品関係の仕事をしていた30年前はこのビルに野球メインのスポーツ用品店が入っていた。

恐らくは元々この地でスポーツ用品店を営んでいた地主がそのままビルに入ったのだろう。

ビルのティーンズファッション化が進むに従ってミスマッチも深刻化し、遂に倒産。

その時僕も商品を引き上げに行ったのだが、この経験が後に『手形が落ちない』という曲の元になった。



道玄坂
道玄坂を登りきると道玄坂の由来を書いた石碑と標柱が建っている。

そんな物に目を止める人など誰もいないが、それによると北条に滅ぼされた渋谷氏の一族の大和田道玄がこの地に道玄庵という庵を営んだのが始まりだそうだ。

瀧坂道入り口
右側の交番と、渋谷にしてはオシャレ度の乏しい床屋の間の細い道が瀧坂道だ。

神泉へ
すぐに静かな住宅街となって湾曲しながら一気に高度を下げる。

狭い道だが交通量は多い。

下り切った辺りが円山町で、東京電力OLが殺されたアパートはこのすぐ近くだった。

円山町
ここはかつて花街だったのが宅地化し、その生活圏をラブホテル群が侵食するといういびつな構造の街となっている。

ここで現代の怪談のような事件が起こった訳だ。



淡島通り
その後小さなアップダウンを繰り返しながら山手通りを超えて現代の淡島通りとなる。

三宿神社
さらに進むと左手に室町時代の多聞寺砦の跡があるというので行ってみたが、緑地公園と三宿神社があるだけで遺構らしき物はなかった。



右が瀧坂道
瀧坂道が淡島通りを右にそれるとすぐに環七に突き当たる。

その手前右のガストで昼食にする。



昼食後瀧坂道に戻る。

くねくねと進む瀧坂道
道は閑静な住宅街をくねくねと進む。

交差する何でもない路地に鎌倉街道の伝承があったりする。

世田谷城跡に寄り道して豪徳寺に入った。



豪徳寺
豪徳寺は井伊家の菩提寺である。

境内には桜田門外に斃れた井伊直弼の墓もある。

そのお墓の場所はわかりやすく案内されていた。



今年の大河ドラマは井伊直虎という人らしいが、それに関する物は境内には一切見当たらなかった。

真面目な寺だ。