飛鳥・藤原京2018年02月11日

岡山
朝、岡山という山の中腹にある民宿若葉の窓からはひっそりとした山里の家並みが見える。

岡寺の三重宝塔
その民宿をチェックアウトして右(山側)の急坂の上を見るとこんな山中に不似合いなほど立派な塔が建っている。

これは天智天皇の勅願によって創建されたという岡寺の三重宝塔だ。

天武天皇と持統天皇との間の子である草壁皇子の宮の跡でもあるらしい。

何気ない風景の中にとんでもない歴史が潜んでいたりする。

油断ならない。



ナビゲーション・システムに「石舞台古墳」を指定する。

当然民宿を出て左、つまり山を下りる方向に進むのかと思いきや右に進ませる。

怪訝に思いながらも岡寺に向かって急坂を上ると寺の手前で右折する。

「万葉の散歩道」という立て札が建っている。

なるほど万葉の花や風景に想いを馳せながら歩くには絶好の道のようだが、車で走るのは考え物だ。

舗装はしてあるものの車1台が通るのがやっとな道幅で、その外側は崖だ。

もちろんガードレールなどない。

もし対向車が来たらどうしたらいいのだろう。



慎重に車を走らせていると右側に飛鳥の里が見えてきた。

飛鳥
じっくりと見れば極めて面白い風景の筈だが今その余裕は無く、車を停めて窓から写真を撮るのがやっとだった。



上居
やがて車は坂を下り、青年時代の聖徳太子が馬で走り回っていたという上居じょうご集落を過ぎる。

そして観光地らしく整備された駐車場にたどり着いた。

ここが石舞台古墳だ。



大人250円、小学生100円を払って見学する。

石舞台古墳
丘の中腹に四方を堀に囲まれた方形の削平地があり、その中心に巨大な石で組まれた墓がある。

元は地中にあった物が何らかの理由で露出してこのような状態になったらしい。

石室内
石室に入ってみると迫り来るような巨石の迫力に圧倒される。

この墓の主は聖徳太子と同時代の最高実力者、蘇我馬子だという説が最有力らしいが、たしかにちょっとやそっとの権力ではこの墓は築けないだろう。



次は飛鳥宮跡へ向かう。

途中、集落の中の路地のような道をいくつも通る。

そのどれもがいい雰囲気だ。

微妙に湾曲したヒューマンスケールの道の両側に民家が肩を寄せ合うように建ち並ぶ。

旧街道を歩いている時だったら何枚も写真を撮るようなロケーションンが連続する。

ただし今は運転中なので1枚も撮れなかった。



飛鳥宮跡
やがて農地の中にポツンと存在する宮跡にたどり着いた。

ここには4つの時期の遺跡が重複している。

その中の一つに飛鳥板蓋宮いたぶきのみやがある。

中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の舞台だ。



大井戸跡
現在復元されている石敷広場や大井戸跡は最も上層の飛鳥浄御原宮きよみはらのみやの物。

壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となった地だ。

様々な古代史上の重要な事件が起きたその現場に今立ちながら、この静かな盆地でそれらをイメージすることは甚だ難しい。



ここで予定外だが高松塚古墳に向かう。

修学旅行で石舞台古墳に行ったことがあると言い張る女房だが、彼女の記憶ではそこで壁画を見たらしい。

さっき行った石舞台古墳に壁画はない。

どうやら高松塚と混同しているようなので、それを確かめに行くことにしたのだ。

ところが到着してみると駐車場から古墳まで片道700mもあるということなので、隣接する飛鳥歴史公園館の展示で女房の記憶違いを確認だけして次の目的地、甘樫の丘に向かった。



天武・持統天皇陵
すると途中に見覚えのある丘の上の鳥居が。

あれはきっと天武・持統天皇陵だ。

石段の上り口まで来てみると車を停めるスペースがあったのでそこで車を降りると確かに「天武・持統天皇陵」という説明版があった。

まったく油断ならない。



石段を上って陵の周りを一周する。

さっきの石舞台古墳に比べれば質素に見える。

この墓は鎌倉時代に盗掘に会い、天武天皇の遺体は棺から引きずり出され、史上初めて天皇として火葬された持統天皇の骨壷は持ち去られ、遺骨は邪魔なのでその辺に捨てられた。



道草を食いながら甘樫の丘のふもとに着いた。

上り口の駐車場には駐車料金500円と表示されてはいても、どこに払えばいいのかわからない。

近くで車を洗っていた人に尋ねて「そこの家」と指差した立派なお宅の門のインタフォンを押すと、中からおじさんが出て来て500円と引き換えに駐車券を渡してくれた。



天樫の丘展望台
駐車券を車に置いて石段を上り、甘樫の丘展望台に着いた。

ここからは飛鳥一帯が見渡せる。

大和三山、二上山、三輪山の位置関係をこの目で確かめられる。

さらにここは蘇我氏の邸宅があったらしい。

ということは蘇我入鹿を殺した後、中大兄の軍勢はこの地をとり囲んだのだろうか。



この次は、天武天皇が妻の鸕野讃良皇女うののさららのひめみこ(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立したという薬師寺(平城遷都に伴って奈良に移転して現在に至る)の跡、本薬師寺に向かい、何とか見つけたもののとても車を停められる場所ではなかったのでそのまま通り過ぎて藤原宮跡に向かった。



地元JAの2階にある資料室で予習をしてから目の前の現地へ。

藤原京跡
とにかくだだっ広い。

だだっ広い原っぱに発掘調査に基づく建物跡を赤い柱で示している。

風がびゅーびゅー吹き抜ける。



藤原宮は天武天皇の遺志を継いだ持統天皇が造営した宮だ。

香具山
ということはここから見える香具山は万葉の古歌

春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山


に詠まれた香具山そのものだ。

あのこんもりした山に白い衣が乾してあったのだろうか。

それとも積もった雪を半分やせ我慢して夏の衣に見立てたのだろうか。



再び車に乗って藤原宮の北の端から南の端に移動する。

朱雀大路跡
そこには平城宮と同じように朱雀大路があった。

その跡が住宅地の中に辛うじて残っている。

南門跡と大極殿跡
真北を見ると南門跡を示す柱と、大極殿跡を示す柱が直線状に並んでいる。

この点も平城宮と共通していることがわかると共に、さっき見てきた飛鳥の宮とは隔絶している、日本で初めて中国の坊条制を取り入れた都城であることが実感できる。



今回の旅で最後に向かったのは吉備池廃寺というところだ。

万葉集にある大津皇子の歌

百伝ふ 磐余いはれの池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ


に歌われた磐余の地がここではないかと言われている。



天武の晩年、皇太子は鸕野讃良との間の皇子、草壁と定められていた。

ところが天武が崩じた直後、天武と太田皇女(鸕野讃良の実姉)の間の皇子、大津が謀反の罪で捕らえられ、処刑される。

この事件、あらゆる面で凡庸な草壁を大きく上回って人望もあった大津をわが子草壁即位の障害と見た鸕野讃良の謀略という説が有力だ。

捕らえられた大津が自らの死を覚悟して詠んだ歌がこれなのだ。



吉備池廃寺
平和な児童遊園の脇を抜けて池のほとりに立つ。

この池は農業用のため池のようだ。

風が吹き付けて池の周りの葦が揺れている。

この荒涼たる風景から往時をイメージするのは難しい。

しかし風の音に大津の無念の声を聞いたように感じたのは勿論現代の旅人の勝手なセンチメンタリズムに過ぎないだろう。



大来皇女歌碑
池のほとりには大津の姉、大来皇女の歌碑があった。

うつそみの ひとにあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世いろせとわが見む


「現世に生きる自分は大津が葬られた二上山を弟として見よう」という歌だ。

歌碑の背後彼方にはその二上山が見えた。

東大寺・平城宮跡2018年02月10日

東京から夜通し車を走らせて奈良市に到着。

しかし最初の目的地である東大寺へ行くのに適当な駐車場を探しているうちに東大寺を通り過ぎて春日神社の前まで来てしまったので、仕方なく春日神社の有料駐車場に車を停めて小雨の中を東大寺まで歩くことにした。



南大門
奈良公園を鹿のフンに気をつけながら歩いていると中国人観光客の向こうに南大門が見えてきた。

鎌倉時代に建てられた国宝の門をくぐると正面に中門があってそこで大人600円・子供300円を払って大仏殿に向かう。

さすがに鹿はもういない。



大仏殿
江戸期に再建された国宝の大仏殿の中で大仏様と対面する。

相次ぐ疫病・飢饉・政情不安を自らの不徳と思い悩んだ聖武天皇が救いを求めて発願した盧舎那仏るしゃなぶつの造立は天皇と光明皇后の主導権争いや当時の複雑な政局にもみくちゃにされた末にここ東大寺で実現した。

大仏様
そして今、目の前に座っている。

実際に相対してみると巨大さはさほど感じない。

従って威圧感もない。



娘が大仏様の鼻の穴と同じ大きさだという柱の穴をくぐったりおみくじを買ったりするのに付き合ってから駐車場に向かった。



BOSEスピーカー
余談だが大仏殿にあったイベント用のスピーカーのメーカーは、お寺だけにもちろん「BOSE(ボーズ)」だった。



平城宮の目の前にある彩華ラーメンで昼食。

結構な人気で、30分近く待った。

現在価格高騰中の白菜がたっぷり入ったラーメン。

ニンニクが効いた辛口でなかなかの美味。

店を出ると雨は本降りになっていた。



平城宮跡には南の端に位置する朱雀門から入りたかったが、駐車場が見つけられずに仕方なく北の端まで回って平城宮資料館の駐車場に車を停める。

まず資料館で勉強する。

売店では資料館で展示している内容をまとめた本を売っていたので買っておく。

こういう資料館でさっと見た物はほとんど頭に残らないのでこれはありがたい。



資料館を出て第一次大極殿に向かう。

大極殿
葦の向こうに2010年の復元建物が見えてきた。

中国の影響の色濃い意匠の建物だ。



ここは天皇が出御して儀式や外国の使節をもてなしたりした平城宮で最も重要な場所である。

玉座
内部には天皇の玉座が復元されている。

これは現存する大正天皇即位時の物を参考に復元したそうだ。



朱雀門
バルコニーに出ると正面(南)に朱雀門が見える。

このラインの延長線上20kmに平城京のひとつ前の都、藤原京があった。

東西には山が連なり、背後の北にも山が迫っている。

このように三方を山に囲まれ、南だけが開けた地勢が当時の都選定の宗教的な条件だったらしく、平安京でも踏襲されている。



大極殿を出て、冷たい雨の中を朱雀門に向かう。

工事中
最短距離を突っ切って行くつもりだったが、現在平城宮跡では平城宮跡歴史公園の3月24日開園に向けた工事の真っ最中らしくあちこちが行き止まりになっていて史跡の外周をぐるりと回る羽目になった。



式部省跡
近鉄奈良線の踏み切りを渡ると文官の人事を担当した式部省の跡が高さ50cmほどの柱と塀で復元されてはいるらしいのだがコンクリートがうら寂しく、うち捨てられた児童遊園の風情だった。



朱雀門から北を見る
朱雀門に立つと北は大極殿、

朱雀門から南を見る
南は藤原京方面に向かって75m幅の朱雀大路が延びている。

朱雀門
ここで唐や新羅の使節を送迎したり歌垣などのイベントを催したり、正月には天皇がここまで出向いてお祝いをすることもあったそうだ。



近鉄奈良線踏み切り
そこからまた踏み切りを渡って資料館の駐車場に戻った。

そして明日香村の奈良県立万葉文化館に向かい午後5時1分に到着。

すると入館は5時までということで、展示室には入らせてもらえなかった。

本日の予定は残念な終わり方だった。

中山道<第34日>大井~大湫2017年12月29日

現代の旧中山道を歩く上で最大の難所は大井~大湫~細久手~御嶽の区間だろう。

何しろ大井宿最寄りの恵那駅を出ると御嶽宿最寄りの御嵩駅までの約31kmの間、駅はおろかバス停さえもないのだ(一部コミュニティ・バスが運行しているが平日のみ)。

しかも宿泊施設は細久手に江戸時代からやっている大黒屋という旅館が1軒あるのみだ。



今回その難所に小3の娘を含む家族3人で挑むにあたり次のような計画を立てた。

  1. まず12月28日(仕事納め)の夜11時30分に東京の自宅を車で出発する。

  2. 恵那駅の立体駐車場に車を停め、遅くても12月29日の7:00AMくらいから歩き始める。

  3. この日はスタート地点から20kmの細久手まで歩いて大黒屋(予約済)に宿泊。

  4. 翌30日は細久手から御嶽までの11kmを歩き、御嵩駅から恵那駅に戻りそこから車で帰宅する。

しかし結論からいうとここまで綿密に立てた計画もほんの小さな綻びから破綻することになる。

今回はその報告。



恵那駅
心配された帰省ラッシュに巻き込まれることもなく夜明けの恵那に到着。

ここ数日心配し続けた天気も良さそうだ。

ただ駅前交差点の寒暖計は-6℃。

経験したことのない気温だが、そのつもりで着膨れしてして来たので体感的にはそこまでの寒さは感じない。



中山道大井宿広場
中山道大井宿広場という公園でトイレを済ませ、珍しい霜柱に興味津々の娘を促して歩き始める。

時刻は7:20AM。

まずまずの出だしと言っていいだろう。



日没までに20km先の細久手に到着するためには遅くても2:30PMには14km地点の大湫を通過したいところだ。



中野村庄屋の家
さびれた商店街といった感じの旧中山道を10分ほど歩くと左手に立派な旧家が現れる。

これは中野村庄屋の家だ。

中野村ということは大井宿はもう終わっていたのだろうか。

さて説明板によると文久元年(1861)の和宮降嫁の際に岩村藩の代官から強制的に費用負担をさせられた近隣の村の百姓が、この庄屋に滞在中だった代官を襲撃するという凄い事件があったそうだ。

しかも村では岩村藩相手に裁判を起こして、代官の罷免と金25両の下付を勝ち取っている。

幕藩体制の終焉が近いことを暗示するような事件だ。



西行硯水公園
そこから約20分ほど県道を行くと左手に西行硯水公園という小さな公園がある。

平安末期から鎌倉時代にかけての高名な歌人である西行法師がこの地に3年間暮らし、ここの泉の水で墨をすったという伝説にちなんだ公園だ。



北アルプス
そこから歩きながら後方を振り返るとまだ夜の開けきらない町並みの彼方の北アルプスに積もった雪が朝日を浴びて輝いていた。



旧道
8:00AM、右手に「西行塚」と書かれた大きな石碑があり、そこから旧道は右に分岐する。

十三峠の始まり
踏み切りを渡り、中央道のガードをくぐると道は左に折れてすぐに石畳の坂道となる。

いよいよ古来難所として有名な十三峠の始まりだ。

石畳の起点には手書きの立て札があり、こう書かれている。


中山道はここより御嵩宿まで約30km幹線道鉄道を外れ山間を行きます.途中食堂や商店宿泊所などありません.十分な準備、下調べで前へお進み下さい.
確かにほぼその通り(宿泊所は細久手に1軒ある)だが、僕らはそのための準備はしてきたつもりだ。

とはいえ緊張を新たにして石畳を進んだ。



西行塚
そこから10分足らずで駐車場とトイレだけがある西行苑というスペースがあり、石段を上って西行が葬られたという伝説が残る西行塚に出る。

西行については全くの不勉強で伝説の真偽を判断する材料は何も持っていない。

西行塚の展望台からの眺め
ただ隣接の展望台からの眺めはなかなかだった。



槙ヶ根一里塚
街道に戻って10分で槙ヶ根一里塚にたどり着く。

両塚とも霜で白茶けながら現存している。

ここには東屋とトイレもあるが、トイレは冬季の凍結防止のため使用できなかった。



旧道
そこからもうねうねと続く白い街道を歩いてゆく。



槙ヶ根立場跡
一里塚から20分で槙ヶ根立場跡に着いた。

江戸末期には9軒の茶屋が軒を並べていたそうだが、今はその跡らしきスペースが残るのみだ。



槙ヶ根追分
またここは名古屋方面に向かう下街道が分岐する槙ヶ根追分の地でもある。

中山道から南へ坂を下って行く道が下街道だ。

幕府は中山道の宿場保護のため通行を禁じ、尾張藩も厳しく取り締まったらしいが徹底できず、お伊勢詣りの旅人で賑わったそうだ。



首なし地蔵
そこから10数分で現れるのが首なし地蔵だ。

昔、二人の中間がここで休憩中に眠ってしまった。

一人が目覚めるともう一人が首を切られて死んでいた。

怒った中間は「黙って見ているとは何事か」とそこにあったお地蔵様の首を刀で刎ねてしまった。

それ以来誰が首を元に戻そうとしても戻らないのだそうだ。



乱れ坂
その先大名行列も乱れたという乱れ坂を下り、

乱れ橋
飛脚達が費用を出し合って架けたという乱れ橋を渡り、

四ツ谷集落
四ツ谷集落に入る。

人家を見ると何となくホッとする。

集落内の集会所のトイレが旅人のために解放されていたのでありがたく使わせていただいた。

こういうのは本当に助かる。



この時点で9:40AM。



恵那山
集落を出て左手の恵那山を眺めながら気分良く歩く。



杉林の中の旧道
道は集落から山の辺、杉林の中へと進むに従ってアスファルト、土、石畳と変わってゆく。

坂道のたびに坂の名を記した棒柱が立っている。

細かい上り坂と下り坂が十三連なって十三峠というそうだが、いくつもあり過ぎて今がいくつ目の坂なのかもうわからない。



のどかな旧道
道はのどかな田園地帯を行くのだが、娘のペースが落ち始めた。

紅坂一里塚
10:08AMにたどり着いた紅坂一理塚(ここも両塚残っている)で休憩がてら今日初めてゲームをさせた。



ぼたん岩
歩き始めるとすぐに牡丹状の模様が露出しているぼたん岩がある。

これは花崗岩のたまねぎ状剥離(オニオンクラック)の標本として学術的にも貴重な物だそうだ。



旧道
さらにアップダウンは続く。

印象としては上りよりも下りの方が長くなってきたような気がする。



佐倉宗五郎大明神
10:35AM、左手に佐倉宗五郎大明神が現れる。

現在の千葉県佐倉市で、佐倉藩の圧政を将軍に直訴して処刑された江戸初期の義民として有名な人だ。

その神社がなぜここにと思うが、どうやら宗五郎と同じように岩村藩の圧政を直訴して処刑された庄屋がいたらしい。

その庄屋を祀るのに本名ではお上ににらまれかねないので佐倉宗五郎の名前を使ったのではないかということだ。



右にそれる旧道
街道は一瞬県道に合流し、右側に復元された高札場と深萱立場跡をみてまた右にそれる。

すぐに東屋とトイレの休憩スペースがあるので休憩する。

ここで娘は寝てしまった。

確かに昨夜からの徹夜ドライブで余り寝ていなかったのかも知れない。



旧道
ところが歩きを再開してからも娘のペースが上がらない。

それどころか街道が山道に入ると「タクシー呼んで」と言い出す始末。

もちろんこんなところで車を呼べるはずもない。

女房が楽しくなるような話をして何とか歩かせる。



旧道の残雪
道には数日前の雪の残りが目立ち始める。

水溜りが凍っているのを見つけた娘はつま先でつついて遊んでいる。

これだけ疲れていても目の前の興味にはすぐ食いつく。

靴を濡らしたらこの先大変だなどということには少しも考えが及ばないらしい。



しかし娘の調子が悪いことは間違いなさそうだ。

茶屋坂を下りたところに中山道の石碑と略地図があったのでそれを指して

「今ここ。この大湫に着いたらタクシーを呼ぶ」

と伝える。

大湫まであと約4km。

何とかなるかと思ったが、娘は頭痛を訴えてつらそうだ。

野辺の道
野辺の道、

落ち葉の道
落ち葉の道、

杉林の道
杉林の道といい雰囲気の道を泣きベソをかきながら歩く。

途中で負ぶって歩くのを試みたが、

「お父さんが壊れる」

と女房に止められた。

確かに最早娘は負ぶって坂を上れるような体格ではない。



権現山一里塚
12:37PM、権現山一里塚に到着。

今日3つ目の一里塚だ。

ここも雪をかぶりながら両塚残っている。



車道と並行する旧道
旧道はゴルフ場の敷地を突っ切ると車道と交差し、その車道と並行しながら徐々に上ってゆく。

大した勾配でもないが、これでも娘にはきついらしい。

「もう峠いやだ、いやだ」

と繰り返す。



大湫
しかしその坂を上りきってしばらく下ると眼下に宿場の町並みが見えてきた。

娘よあれが大湫宿しゅくだ!

そして僕らは十三峠を歩き切った。

時に1:33PM。



大湫宿
大湫を歩きながら休憩できる場所を探す。

昔のままの道筋に雰囲気のある家屋や塀が連なる町並みだ。

元旅籠屋の無料休憩所おもだかやで休ませてもらう。

十三峠を越えてやって来た小3の娘に管理人の奥さんは驚いていた。

親として鼻が高い瞬間だ。

娘はすぐに寝込むかと思ったらゲームをやっている。



さてこの先どうするかを女房と話し合う。

事前情報では大湫でタクシーを呼んで細久手まで行くと料金は約3,000円。

しかしそうすると明日はまた細久手から大湫までタクシーで戻って、御嶽までの17kmを歩くことになる。

それを考えると何とかあと6km頑張って細久手まで歩いてしまいたい。

娘もゲームをする元気があるんなら行けるんじゃないか?

そこで娘に事情を話してみると

「じゃあ頑張る」

と言ってくれた。

それで昼食込みで1時間ほど休んだ後、靴を履いておもだかやを出ると娘が

「やっぱり無理かも」

と言い出した。

足が痛いらしい。

そこへおもだかやの管理人の奥さんが追いかけて来て

「細久手まで主人の車で送りましょうか?」

と申し出てくれた。

ここで歩きを諦めるべきかちょっと迷ったが、お言葉に甘えることにした。



旦那さんの車で大湫を出発したのが2:30PM。

皮肉にも僕の計画通りだ。



大黒屋
門松飾りも立派な細久手の大黒屋に着くとまず3人とも爆睡。

その後娘は発熱して夕飯も翌日の朝食もほとんど食べられなかった。

これはもう歩きは無理なので大黒屋さんにタクシーを呼んでもらい、絶好のウォーキンング日和の下を恵那まで約8,000円かけて引き返し、恵那からマイカーに乗り換えて東京に帰った。



墨田区の休日診療に連れて行くとインフルエンザだった。

熱は40度。

潜伏期間を考えると出発前日か前々日あたりにもらった可能性が高い。

その状態で歩かせたことは可愛そうなことをしてしまった。

でもよく頑張ってくれた。

本人が

「次中山道いつ行けるの?」

と言ってくれてるのが救いだ。

東洋大学軽音FreewayOBOG会2017年12月14日

12月9日の土曜日に大学時代に所属していたサークルのOBOG会が北浦和のライブハウス「エアーズ」でありました。

その会に当時組んでいた「ばしゃ山工務店」というバンドを30数年振りに再結成して出演しました。

ギターの同級生西氏は鹿児島から10:40AM羽田着の飛行機で上京、その足で12:00PMから1時間だけ予約している会場隣接のスタジオで音合わせして2:00PMからステージという綱渡り的なスケジュールを完遂しました。

そのステージの動画です。





八王子城2017年12月02日

八王子城は小田原北条氏の三代目氏康の三男、北条氏照が築いた山城。

天正18年(1590)の秀吉による北条征伐の際に前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城。

これが籠城する小田原城を開城させる決め手となった。



今日は家族3人でその八王子城を見学する。

事前情報ではかなりハードな山城だということなのでハイキング・レベルの服装と靴ででかけた。



ガイダンス施設
駐車場に車を停めてまずはガイダンス施設へ。

ここで八王子城のマップを入手。

さらに城の歴史についてコンパクトにまとめられたビデオを見たり、トイレを済ませたりしてから城跡を歩き始める。



もらったマップの説明によると八王子城は大まかに3つのエリアに分かれるそうだ。
  • 戦闘時に要塞となる要害地区
  • 城主氏照の館があり生活の中心になっていた居住地区
  • 城の城下町にあたる根小屋地区
このガイダンス施設や駐車場は根小屋地区にあたるらしい。

空堀跡か
そう思いながら施設の裏の土塁のような盛り土の上から外を見ると空堀跡のようなV字のくぼみが認められる。



左へ
ガイダンス施設を出るとすぐに道が二手に分かれる。

右は要害地区(本丸跡)への道、左は居住地区(御主殿跡)への道だ。

まずは左に道をとって御主殿跡へ向かう。



城山川が左に並行する道を進むと小さな橋があって川の反対側に出る。

大手門跡
そこから少し斜面を上った所に大手門跡がある。

ここから御主殿に向かって古道が伸びている。

現在大手門の反対側に道はないが、往時は城山川の下流に向かって続いていたということだ。

確かに道の痕跡らしき物が認められる。

さっきまで歩いていた対岸の道は江戸時代に作られた林道だそうだ。



御主殿跡
古道を歩き、曳橋を渡って再び城山川の対岸に行くとそこが御主殿跡だ。

階段
虎口は橋のたもとから御主殿内部までの高低差9mを「コ」の字型の階段通路として全面を石垣で固めている。

この石垣は発掘調査で検出した物をできるだけ使用して復元した物。



御主殿跡
階段を上りきると芝生広場に出る。

ここに北条氏照の屋敷や会所や庭園があったらしい。

しかしそれにしてはここは谷の奥まった所で日当たりも良くない。

城主の館にふさわしいロケーションとは思えないのだが。



ここは発掘調査を重点的にやったらしく、その成果をいくつもの説明版で詳しく説明している。

八王子市の熱意が感じられる。



御主殿の滝
御主殿跡を出て御主殿の滝を見る。

天正18(1590)年の秀吉軍の攻撃で落城する際は、御主殿にいた女子供・将兵がこの滝の上で自刃して次々に身を投げた。

それから3日間この川の水は赤く染まったままっだったそうだ。

今この滝に身を投げるほどの水量はない。

ただし透明度は凄く高い。



そこからさっき道が二俣に分かれていた地点までは江戸期の道の方を辿って戻りたかったが、そっち方面から引き返してきた人が

「この先は通行止めになっている」

と教えてくれたので仕方なく来た道を辿って戻った。



管理棟
枝分かれ地点には管理棟があり、その前には

“「北条五代」を大河ドラマに!”

と書かれたのぼりが立っている。

僕もその大河ドラマ是非見たい。

ただし脚本は田渕久美子先生と小松江里子先生以外でお願いしたい。



12:02PM、ここからは本丸(要害地区)に向かって歩く。

つまり山城域だ。

山城に入る
林の中の土橋を渡ると古ぼけた鳥居の向こうにかなり急勾配な石段が伸びている。

その石段を上っていると両側に曲輪らしき小さな削平地がいくつも見つけられるが、説明は何も無い。



排水路
坂道には箱根の旧東海道などで見られた石の排水路もいくつか見られた。



金子曲輪
鳥居から10分ほどで金子三郎左衛門家重が守っていたという金子曲輪に着く。

曲輪といっても大した広さではない。



柵門跡
そこから10分ちょっとで柵門跡という詳細不明の小さな削平地に出た。

ここから今まで通った削平地群を通らずに一気に麓まで下りる古道が伸びている。

帰りはこの道を使うつもりなので覚えておく。



つづら折れの坂道
そこからさらにつづら折の坂道を10分ほど上ると左側の視界が一気に開ける。

八王子城からの眺め
八王子市街はもちろん、都心のビル群まで見渡せる素晴らしい眺望だ。

微妙ではあるが地球の丸さも感じられる。



松木曲輪へ
そこから10分ほど比較的緩やかな坂を上って松木曲輪に至る。

中山勘解由家範かげゆいえのりが守っていたが、前田利家の軍勢に攻め落とされる。

しかしその時の家範の奮戦振りが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられて水戸徳川家の家老にまでなったそうだ。



ここで昼飯のコンビニおにぎりを食べる。

1:00PM。



本丸跡
松木曲輪から八王子神社や小宮曲輪を見ながら5分ほどで本丸に辿り着く。

大した広さではないので大きな建物は無かったと思われる。

樹木に遮られて眺望は開けていない。



と、そこへ女性2人組がやって来た。

詰城つめのしろへ行く道を知りませんか?」

聞けば詰城へ向かう本来の道にロープが張ってあって通行止めになっているので、それなら本丸から行く道はないかと探しに来たそうだ。

詰城にはこれから行くつもりなので一緒に広くない本丸をぐるっと回ったがそれらしい道は見つけられなかった。



どうしようかと思案にくれる二人を残して僕らは本丸を下りて松木曲輪の下の小さなくぼ地に出た。

ここから詰城への道が伸びている。

詰城へ向かう
途中で通行止めになっているかも知れないのでどうしようかと迷ったが、今まで上り坂を文句をたれながら登っていた娘がやにわに冒険心を起こして行きたがったので草の間の道をまず下りて行った。



下りてすぐに井戸のある小さな削平地があり、その先で道は二手に分かれている。

そして詰城とは反対方向への道にロープが張られている。

さっきの2人組はこれを勘違いしたのだろうか?



アドベンチャーな道
この先詰城へと向かう道は幅約30cm、右は山肌、左は崖というかなりアドベンチャーなシチュエーションに。

自分が先頭に立ち、娘をはさんで最後尾に女房がつく形で慎重に歩く。



堀切跡か
井戸から10分で堀切らしき土地がえぐれた場所に着いた。

石が散乱する尾根道
そこから先は尾根道となる。

ところどころ大きな石が割れて散乱しているのは石垣の名残だろうか。



詰城跡
本丸を出てから30分ほどで詰城跡に着いた。

ここもさして広くは無い。

石が散乱する
ここにも割れた石が散乱しているのは石垣の名残だろう。

しかし昭和40年に農林省がここに立てた石柱に「史跡 八王子城天守閣跡」と書いてあるのはいただけない。

どう考えてもこの狭いスペースに天守などあるはずがない。

ここは城の背後を守るための出丸のようなものだったのではないだろうか。



そこから引き返して柵門跡で予定通りにここから古道の方を進んだ。

これは林の中の道だ。

古道
林の中をジグザグに下りて行く。

石垣
法面を石垣で固めた跡も見られた。



後半は道がV字状にえぐれて、しかも赤土が湿って足をとられる。

何度もしりもちをつきながらやっと鳥居の地点まで戻った。

3:30PM。

1時間遅ければ林の中で日没を迎えるところだった。



麓の居館と山上の要害という戦国の城の特徴が良く分かる城だった。

しかし山城域の遺構は明瞭ではなかった。


遺構残存度4戦国期の城の特徴を良くとどめる
歴史的重要度4落城で北条氏の命運を決した
景観5山城からのすばらしい眺め
案内充実度4要害地区はやや手薄か