向島純情楽団ライブ@荻窪ルースター2016年04月20日

4月16日に行ったライブの動画です。





大多喜城2016年02月13日

大多喜城は千葉県大多喜町の小高い丘の上に建つ平山城。

戦国期には安房の里見氏重臣の正木氏が城主であったが、家康の関東入封に伴い本田忠勝が城主となる。

その後主を替えながら明治4年に廃城となった。



駐車場
車を駐車場に入れると、思いのほかたくさんの車が停まっている。

駐車場の出入り口には土産物屋が軒を連ねている。

今回女房の兄貴から聞くまでは名前も知らなかった大多喜城だが、地元ではそれなりに有名な観光地らしい。



空堀跡
ここに向かう車の中からちらちら見えていた天守に向かって車道を歩いていると右側に空堀の跡が。

かなり大きい。

崩落した崖のようにも見える。



さらに上ると右側に「大多喜城二之丸公園」がある。

公園と言ってもちょっとしたスペースに東屋があるくらいだ。

堀切跡
しかし堀切の跡らしき物はしっかりある。

さらに細い階段を上るとそこにも小スペースがあり、現在そこには梵鐘があるのだが、往時は物見櫓でも建っていたのではないだろうか。



さていよいよ本丸だ。

模擬天守
白亜の大天守は目の前だ。

土塁跡
しかし我々お城ファンはそんな歴史的根拠の怪しい模擬建築よりも反対側の土塁に着目する。

天守の向かいにこんもりとした土盛りがわずかに残っている。



塀
その先には白漆喰の塀がめぐらされているが、これは後世の物だろう。

紛らわしいのではっきりと説明しておいてほしい。



大多喜高校
本丸の下は大多喜高校。

金属バットが硬式ボールを打つ音がここまでひっきりなしに聞こえてくる。

あそこもお城だったことは容易に想像できる。



千葉県立中央博物館大多喜城分館という名の模擬天守に入る。

入場料は一般200円。

定番の三つ折りパンフをもらう。

ここでの最大の関心事はこのパンフに縄張り図が載っているかどうかだ。

開いて見ると、あった。

あったけれども余りにも小さい。

江戸時代に描かれた「大多喜城地絵図」が載っているのだが、5~6cmの大きさで印刷されていて内容が読み取れない。

がっかりだ。



気を取り直しながら館内の展示を見ていると、城の縄張りと現在の地図を重ね合わせた図面が掲示されていた。

さっきの高校が二の丸に当たることなどが良くわかる。

しかしこの紙を片手に実際の城の現況を見て回れたらどんなに面白いか。

なんでこれを配らない。

こういうところは往々にして観光客のニーズには応えても、城ファンのニーズには鈍感なようだ。



遺構残存度2模擬天守で減点
歴史的重要度3家康の重臣・本田忠勝の城
景観2これも模擬天守で減点
案内充実度3立派な博物館の残念なパンフ

<古東海道>沼部~池上本門寺2016年01月10日

1月の3連休、初詣は普段馴染みのない所にしようということになり、池上本門寺に行って見ることにした。

ただ行ってもつまらないので、古代の東海道(古東海道)を辿ってみた。

僕らが今家族で歩いている旧東海道は江戸時代に幕府によって整備された道。

それに対して古代律令国家の官道として制定された東海道を便宜上、古代の東海道とか古東海道とかと呼んでいる。

だから正確な道筋は不明だが、だいたいの見当はつくらしい。

今回僕らは荻窪圭『東京古道散歩』(中経の文庫)の比定するルートに従って沼部から池上本門寺までを歩いて見た。




東急多摩川線沼部駅を降りて線路の西側に踏み切りを渡る。

二つ目の角を右に曲がって南に向かう。

古東海道
これが古東海道だ。

ちなみに駅のすぐ西側は多摩川の土手で、往古はそこに丸子の渡しがあったと思われる。




六郷用水
すぐに新幹線のガードをくぐると古東海道は江戸期に造られた六郷用水路沿いの遊歩道になる。




道の左手は崖
道の左手(東)は崖のように切り立った壁面で、右手(西)は土地が下がっている。

多摩川に向かって河岸段丘を形成しているのがよくわかる。

またこの辺りは神社仏閣が多いらしく、そこらじゅうにそれらしい建物や緑を見ることができる。

これもここに古代からの集落があったことの証だろう。




ふと住居表示を見ると「田園調布」とある。

ああこれがあの有名な田園調布ですか。

なるほど閑静な住宅街だ。

さっきからお腹が空いたので昼食が取れる店を探しているのだが、民家ばかりで食べ物屋どころか物を売る店というものがまるで見当たらない。

この辺の人の生活ぶりは全く見当もつかない。




そんな田園調布を歩いていると東急不動産を批判したのぼりがたくさん立っている一角に行き当たった。

そののぼりの断片的な文句を繋ぎ合わせると、どうやらこの辺りで東急不動産の大きな建設計画があってそれがこの一帯の環境や景観を破壊するということらしい。

建設現場
すると左側に広大な建設現場が現れた。

どうやらこれのことらしい。




結局何ら食べ物にありつけないまま環状8号線にぶつかった。

すぐ近くにあったコンビニのイートインで昼食を済ませた。

この辺りの人、外食はどうしてるんだろう?




光明寺
昼食の後、光明寺に立ち寄る。

奈良時代創建の古刹で、境内には古墳や往古の多摩川の流路跡と言われる池があるそうだ。

荒塚
確かに5~6世紀の古墳である荒塚は何とか見つかった。

しかし何の案内や説明もなく、『東京古道散歩』の写真がなかればまずわからなかっただろう。

池などは見当たらなかった。

境内にそういう説明の類は全くなく、坊さんの姿も見えない。

一応お参りをしようかと思ったが、賽銭箱すらなかった。

今時随分とストイックな寺だ。




環8を渡ってまたしばらく六郷用水路沿いの古東海道を歩く。

路地
途中から車の通れない路地になる。

左側は崖のような斜面。




馬頭観音
国道1号線も超えて馬頭観音の前を通り過ぎる。

萬屋酒店
やがて萬屋酒店の交差点に差し掛かる。

池上本門寺
そこで左を向けば目指す池上本門寺が見えて来る。

さっきまで人通りもまばらな道を歩いていたのが一転して初詣客で賑わっている。

加藤清正が寄進したという石段を登るとここが武蔵野台地の端っこであることを実感できる。




初詣を済ませ、国道1号線を西馬込駅まで歩いて家路に就いた。

この先この古東海道を歩くかどうかは未定。

諏訪原城2015年12月30日

昼食をとった喫茶こもれびを出て、旧東海道を金谷方面に少し戻ると駐車場があってその脇に諏訪原城への入り口を示す案内板が建っている。

そして感心なことに入り口にはポスト状の物が建っていて、透明のフタを開くとB4三つ折のパンフレットが置いてある。

オールカラー印刷で縄張り図や写真もある。

お城を見る時にこの縄張り図があるのとないのとでは全然違う。

こんな風に現地で調達できるのは本当にありがたい。




外堀
城内に入ると巨大な堀に目を奪われる。

外堀
深さといい、幅といい、まるで地割れのようだ。

この弧を描いた堀が二の曲輪中馬出の跡らしい。

馬出というと単なる馬の出入り口くらいに思っていたこちらの認識を吹き飛ばす巨大さだ。




土橋
土橋を渡って二の曲輪に向かう。
外堀
橋の両側の外堀もかなりの迫力だ。




鹿
だだっ広い原っぱとなっている二の曲輪を歩いていると女房が鹿に気付いた。

そっちを見るとそれらしい哺乳動物がこちらに尻を向けて草を食んでいる。

人の気配で逃げ出さないところを見ると、かなり人間慣れしているようだ。




内堀
二の曲輪側の斜面は緩く、本曲輪側はほぼ垂直に掘られた内堀を土橋で渡って本曲輪に向かう。

入り口にこんもりとした土の盛り上がりがあって、ここに本曲輪虎口という標柱が建っているのだが、それにしては人が通る通路がない。

400年の間に埋まってしまったのだろうか。
本曲輪虎口跡
仕方なく土塁を超えて本曲輪に入った。




牧ノ原台地の端っこに造られたこの城は扇状の縄張りになっている。

その扇の要部分がこの本曲輪に当たる。

天主台地
中心に向かって土地が盛り上がっていて、そこに建てられた説明版には

天主台地

この城は山城であり天守閣はなく二層からなる矢倉(櫓)があり物見が常駐しており敵の動きを監視していた。


とある。

「天主」の表記は安土城だけではなかったか?

そもそも天守がないのになぜ「天主台地」なのか?

と疑問はあるが、ここに物見櫓があったのは本当だろう。




本曲輪の土塁
本曲輪周縁の土塁の上を歩く。

すると樹木が途切れて眺望が開ける。
本曲輪からの眺望
大井川はもちろん、駿河湾から伊豆半島までうっすらと望むことができる。

素晴らしい眺めだ。




諏訪原城は武田勝頼が高天神城攻略のための拠点として天正元年(1573)、馬場美濃守信房に命じて築いた城。

目論見通り高天神城は奪取したが、天正3年の長篠の戦いで敗れて家運が大きく傾くと家康の攻勢にさらされてその年のうちに落城。

家康はこの城を牧野城と改め、増強・改修を加えたため現在見られる遺構は武田と徳川が混在しているということだが、さすがにそれを見分けるほどの眼力はない。

だいいち徳川の城は今までに江戸城と駿府城くらいしか見てないんじゃないか。

天正10年の武田家滅亡に伴ってこの城の重要性も薄れて天正18年頃に廃城となった。




カンカン井戸
本曲輪から折り返し、内堀の中のカンカン井戸や城の名前の由来となった諏訪神社を見て二の曲輪大手馬出から城を出る。

見応え充分の城だった。

城内の樹木が伐採されていて見やすかった。

現在整備工事中のようだったが、その工事がこの城の生々しい魅力を損なわないことを祈りたい。

遺構残存度4巨大な堀や馬出が良好に残存
歴史的重要度4武田・徳川の争奪戦
景観4本曲輪からの眺め
案内充実度4入り口のパンフレット

東海道<第27日>島田~金谷2015年12月30日

10:00AM、大井川公園バス停に降り立ち、今日の東海道ウォークを始める。




小心な徳川幕府のせいで誰もが難渋を強いられた大井川を大井川橋で渡る。

大井川
現代の大井川はそれほど深くないように見える。

大井川の川原
ただ川原には大水で上流から根こそぎ流されて来たと思しき流木がそこかしこに倒れたまま半ば埋まっていた。




対岸の茶畑
対岸の丘の斜面はびっしりと茶畑で埋まっている。

今日これから上る金谷坂はあの丘の中にあるらしい。




旧東海道
橋を渡りきって堤の上を南に向かい、旧東海道が始まるところで堤を下りる。

すぐに「金谷宿川越し場跡」という案内板の建つ小公園に達する。

かつてはこの辺りまで川原だったらしく、このちょっと先に川越人足の詰め所などが建ち並ぶ河原町が形成されて金谷宿の一部となっていた。

河原町
現在ではひっそりとした住宅街になっている。




そこから少し歩くと元々の金谷宿に入る。

河原町ができてからはこちらを「金谷本宿」と呼ぶようになったらしい。

金谷宿
なだらかな坂道に商店が建ち並んでいて、宿場の色々な施設の跡地にはまめに案内板を建てて丁寧に説明している。




佐塚屋本陣跡
そのうちの一軒、「佐塚屋本陣」は現在「佐塚書店」になっていた。

中山道と東海道を歩いて色んな本陣跡を見て来た。

一番多いのは駐車場、続いて医者・金融機関というところだったように思うが、本屋というのは多分初めてだ。




金谷坂
その先旧道は東海道本線で分断されているので、ガードをくぐって再び旧道にアクセスすると一気に道幅は狭く、勾配も急になる。

金谷坂の石畳
交差する車道を横断するとすぐに金谷坂の石畳が現れる。




昼なお薄暗い
鬱蒼と生い茂る樹木で昼なお薄暗い山道を進む。

この石畳の石は球状に丸みをおびていて大そう歩きにくい。

足元から目が離せない。




その名前から、受験生に人気の「すべらず地蔵」を右に見て通り過ぎるとやがて樹木が途切れて空が広がり、茶畑の広がる平原に出る。

茶畑
12月の陽光の下、茶畑を左に見ながらアスファルトの旧道を歩く。




右側の「諏訪原城」を通り過ぎた所にある「こもれび」という山小屋風の喫茶店で昼食を取ることにする。

喫茶こもれび
思いのほか雰囲気のいい店でまったりとした時間を過ごした。




その後諏訪原城を見学したところで(2:30PM)、諏訪原城跡バス停で次バスの時間を見るとあと2時間近くもある。

僕と女房の二人だけなら迷わずこの先の小夜の中山峠を越えた先にある次のバス停まで4kmほど歩くところだが、娘と女房の兄貴はかなり疲れてしまっているようだったので、今日の東海道ウォークはここまでということにして、金谷駅まで歩いて戻った。