小諸城2016年10月30日

小諸城は現在「懐古園」という庭園のような扱いになっている。

まずその懐古園の駐車場に車を置く。

駐車料金500円だ。

そこから順路を行くと三の門の内側に出る。

門の外側に出てみると目の前は道路と線路でふさがれていて、地下道が通っている。

大手門公園
その地下道をくぐって表に出ると駅前広場の向こうに大手門が「大手門公園」として残っている。

その大手門から城に入り直すことにする。



大手門
大手門は城下町よりも低い場所にある。

街道からは石段を降りて入る格好になる。

建物内部に入れるようになっているので入って見る。

大手門内部
内部は資料室になっていて、この城が城下町よりも低い場所に造られた全国的にも珍しい「穴城」であることが紹介されていた。



三の丸跡
大手門から城内に入ると右手の駐車場が三の丸の跡だ。

この駐車場は無料なので、これから小諸城を訪れる方にはこちらがお勧めだ。

動線的にも無駄が無い。



三之門
さっきの地下道を反対向きにくぐって三の門の前に出る。

この門はさらに低い場所にある。

ここから先に進むには入場券を買う必要がある。

資料館である「懐古館」や「藤村記念館」など4施設とセットになった入場券を500円で買ってまず懐古館に入ってみた。

そこでは展示よりも300円で売っている「小諸城全図」が重要だ。

気の利いた城なら無料で配っていたりする縄張り図だが、有料でも現地で確実に入手できるのはありがたい。



縄張り図を手にお城を散策する。

城内
どうやらここは紅葉の名所らしく、今日は紅葉狩りの客でいっぱいだ。



二の門跡
石垣で固められた枡形を形成する二の門跡を通ると両側は2m以上にかさ上げされた削平地が連なっている。

二の丸付近
というよりも今歩いている道が空堀らしい。

空堀が通路で、各曲輪へは階段を上って入る構造だ。

空堀
また、その曲輪の背後の空堀は予想外に深い谷のようだった。



本丸は例によって神社になっていて興をそがれる。

本丸の石垣
その神社の背後にそびえる2mほどの石垣の上に登る石段があるので、何気なく登って見る。

すると反対側(本丸の外側)はその3倍はあろうかという高さで思わず足がすくむ。

複雑な地形を活かした巧みな防御と言えよう。



天守台への通路
この石垣の上は天守台への通路となっているのでそっちに向かって歩いて見る。

天守台
ここにかつては金箔瓦葺きの天守が上がっていた。



千曲川
天守台を下りてかつての不用門にあたる水の手展望台に行くと、ここは崖の端になっていて千曲川が見下ろせる。



小諸城は大井氏の館を武田氏が大改修した。

縄張りは山本勘助と伝わるが、史料的な裏付けはない。

その後滝川→北条→松平→仙石と入れ替わって第2次上田合戦を迎える。

この時徳川秀忠軍は小諸城に布陣している。

さらに徳川→松平→青山→酒井→西尾→石川→牧野と続いて明治維新を迎える。

廃藩置県後は官軍小隊長・乃木稀典に引き渡されて廃城となった。



遺構残存度4石垣と空堀のスケール大
歴史的重要度3秀忠布陣の城
景観4紅葉の名所
案内充実度3300円の縄張り図。現地の説明は淡白

白河小峰城2016年10月08日

車を「城山公園」の駐車場に停める。

目の前は白河駅。

まさに「駅前の城」だ。



駐車場から二之丸跡へ。

二の丸の空堀跡
きれいな芝生広場に空堀の跡。

小2の娘が下りて遊びたがるのを止めながら歩く。

石垣
本丸側を見上げると見事な石垣。

崩落した石垣
しかし所々が東日本大震災による崩落の復旧作業の途上にあるのが痛々しい。

立ち入りできる場所も大幅に制限されている。



本丸へ向かう
工事用のフェンスの前を歩いて清水門を入り、本丸へ向かう。

桜門跡
本丸入り口の桜門は左右を石垣でがっちりと固められている。

復元の太田金山城あたりとはやはり重厚感とリアリティが全然違う。



本丸へ
石段の向こうに三重櫓が見えてきていよいよ本丸へ。

多聞櫓跡
本丸南面の多聞櫓跡に上って今来た方角を見下ろすと、

清水門跡
清水門が工事用フェンスで分断されていることがよくわかる。

正直さっきは門だと気付かなかった。



三重櫓と前御門
本丸の東辺には前御門、東北角には三重櫓。

どちらも戊辰戦争で消失したのを近年、木造で忠実に復元した物だ。

三重櫓内部
その三重櫓に入って見る。

先日の甲府城と同様、料金は取られない。

ただしこちらにはあの有難い縄張り図付きパンフのような物は一切ない。



土塁
連子窓からは本丸北側の土塁などが辛うじて見える。



またこの三重櫓を再建する際、戊辰戦争の激戦地であった稲荷山の杉の大木を用材として使用したところ、いくつかの弾痕が見つかった。

弾痕
それをそのまま使用しているので、内部にその痕跡を見ることができる。



白河小峰城
都市部の平城としては遺構の良く残ったお城だったが、事前に縄張り図を用意しなかったので表面的な見学(というか観光)に終始してしまった。



白河小峰城は寛永4年(1627)に幕府が丹羽長重に奥州の押さえとして築かせた。

仮想敵国として念頭にあったのは仙台の伊達だろうか。

その後城主は入れ替わり立ち代りして迎えた幕末の戊辰戦争。

東北諸藩の奥羽越列藩同盟軍3千が守る小峰城を新政府軍700が包囲する。

城を攻めるには相手の倍以上の戦力が必要とされるというような話をよく聞くが、ここでは城方の方が寄せ手の4倍以上の戦力を擁している。

にもかかわらずこの城は落ちてしまった。

同盟軍の総督は会津藩家老の西郷頼母。

彼には実戦経験がなく、いわば素人だ。

対する新政府軍は北関東を転戦して来ている。

そんな歴戦の雄が最新式の武器を擁して奇襲をしかけると、数に驕って緊張感を欠いていた同盟軍はなす術もなく崩れてしまった。

この戦いが実質的に戊辰戦争の帰趨を決めたのである。



遺構残存度4見事な石垣と真面目な復元櫓
歴史的重要度4戊辰戦争の帰趨を決める戦い
景観3本丸からの眺め
案内充実度3見る側での準備が必要

甲府城2016年09月11日

武田信玄像
甲府駅前の有料駐車場に車を置き、信玄の銅像を左に見ながら甲府城に向かう。

手には『歴史群像シリーズよみがえる日本の城11駿府城甲府城』(学習研究社)。

この中に縄張り図があるのでそれを見ながら歩こうという寸法。

時刻は10:34AM、気温はどんどん上昇中だ。



土塀
大きな陸橋の下で右に曲がると立派な石垣と白い土塀が見えて来る。

久しぶりに近世城郭にやって来たことを実感する。



ここ甲府城は武田氏滅亡後に甲斐に入った徳川ではなく、加藤光泰・浅野長政らの豊臣政権の重臣によって築かれた。

関が原以後は徳川一門の支配地となる。

その中には三代将軍家光の実弟・忠長もいる。

母・お江与の方の愛情を一身に集めて将軍職を兄と争う形となったため三代将軍職に就いた家光に憎まれ、幽閉→自刃という運命を辿る。



内松陰門
内松陰門から城内に入る。

前後左右見事な石垣だ。



本丸へ
石段を上って本丸へ。



帯曲輪
本丸の銅門跡の石垣に上って今来た経路を振り返ると幾何学的に折れ曲がった土塀と石垣が小気味良い。



天守台
本丸の東端の天守台に向かう。



天守台
ここの石垣も見事だ。



天守台から南の眺め
石段を上って天守台上に立つと甲府市街が360度見渡せる。



ここで持参の縄張り図と見比べて見ると城の西側は道路、北側は鉄道でバッサリ切断されて消滅したことが良く分かる(近年線路の向こう側に清水曲輪が復元された模様)。

すると僕が手にしていた縄張り図を見たボランティアガイドさんが

「『楽只堂(らくしどう)年録』ですね」

と話しかけてきた。

しばらくこのガイドさんと話したが、甲府城の歴代城主は勿論、武田家の系譜まで本当に良く知っている。

ためになる話を沢山聴いたはずなのだが、今現在ほとんど覚えていない。

実はとにかく暑かったのだ。

特に天守台の上は日陰が全く無く、意識朦朧の一歩手前だった。



稲荷櫓
天守台を下りて稲荷曲輪に再建された稲荷櫓に入って見る。

とにかく日陰に入りたかった。

入り口に置いてある三つ折りのパンフレットを見ると、城址全体のイラストマップが載っている。

現地でこんないい物が手に入るとわかっていたらわざわざ本など持ち歩かなかったのに。



稲荷櫓内部
2004年に古式な工法で復元された稲荷櫓はエアコンこそ入っていなかったがそれなりに涼しかった。



復元模型
2階には城の復元模型もあった。



この甲府城は幕末の最終局面で歴史に登場する。

大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の戦いを経た慶応4(1868)年。

江戸にいた新選組局長・近藤勇に甲府城に入るべしという指令が勝海舟より下る。

甲府で新政府軍の進撃を食い止めろというのは表向き。

できるだけ有利な条件で新政府に江戸城を引き渡したい考えの勝としては、徹底抗戦派の新選組を体よく江戸から追っ払うのが主眼だった。



それと知ってか知らずか近藤は有頂天。

ついに城持ち大名になったとばかりに、甲州街道の宿場宿場でドンチャン騒ぎを繰り返す。

何しろ道中の多摩地域は彼らの地元なのだ。

甲府城への行軍は、故郷に錦を飾る彼らの凱旋パレードと化してノロノロと進んだ。

その間に板垣退助率いる新政府軍が甲府城に無血入城を果たしてしまった。

勝沼で新政府軍とドロナワ的な野戦に及んだ甲陽鎮撫隊(新選組)は惨めな敗戦を喫する。

謂わば甲府城は近藤勇の幻の城なのだ。


遺構残存度4見事な石垣
歴史的重要度3忠長幽閉と甲陽鎮撫隊
景観4城のある都市景観と天守台からの眺め
案内充実度5ハイレベルなガイドと要点を得たパンフ

躑躅ヶ崎館2016年09月11日

昨日駐車場の利用時間の関係で1時間足らずしか見学できなかった躑躅ヶ崎館を再訪。

昨日と同じ駐車場に車を停める。

すぐ近くに堀と土塁の跡らしき物がある。

梅翁曲輪
これが梅翁曲輪で、蔵前衆(代官)の執務所だった。



この曲輪の外周を歩いて武田通りに出る。

躑躅ヶ崎館、つまり現在の武田神社への参道が南北に真っ直ぐ伸びている。

お城への道にしては例外的な真っ直ぐさだ。



その武田神社に向かって緩やかな坂道を北上する。

鳥居の向かいのお土産屋で風林火山のTシャツを購入。

僕はこういうのに弱い。



武田神社
躑躅ヶ崎館は言わずと知れた武田信玄の居館。

武田家滅亡後、徳川・豊臣系の大名が入った後、江戸時代に入って甲府城の築城に伴って廃城。

大正時代になってこの地に信玄を祀る武田神社が創建されて今に至っている。



ほぼ四角形の躑躅ヶ崎館。

その四角形の下辺に当たる南側の外周を東に向かって歩く。

往時は存在しなかった鳥居・門・橋は無視。



館の反対側に勝頼を裏切って織田に内通した穴山信君の屋敷跡

高坂昌信屋敷跡
すぐ近く(というか隣)には落日の武田家を支え、生き残りを模索しながら病死した高坂昌信の屋敷跡もある。



この辺りが南東の角で、次は東辺を北に向かって歩く。

大手口東エリア
すると右側、つまり館跡の外側のエリアが復元整備されている。

甲府盆地
土塁の上に登って南を向くと甲府盆地が見渡せる。

ここは甲府盆地を形成する扇状地の要の位置に当たり、ここから南に向かって傾斜して下っているのだ。



大手口前構造物
続いて西を向くと、館の大手門の前に復元された馬出しの構造がよくわかる。

しかしこれは武田得意の馬出しではなく、武田家滅亡後に入封した徳川氏か豊臣系大名によって作られた何らかの建物の土台らしい。



土橋を渡って大手門跡から武田神社の敷地に入る。

入ってすぐが東曲輪、次が中曲輪

この中に信玄の屋敷やら政庁などがあったらしいのだが、実際にはただの神社にしか見えない。

信玄使用の井戸
わずかに信玄使用の井戸があるくらいだ。



東曲輪に建つ宝物殿には昨日入って、由来不明の風林火山の旗を見た。

結構な大きさだった。



土塁の切れ間から武田神社の敷地を出て西曲輪に入る。

西曲輪
こちらは神社の施設が無く、ほぼ野ざらしだ。

俄然遺構らしさが戻ってきた。

西曲輪の土塁の上を歩いていると中曲輪との間の堀の深さや中曲輪の土塁の高さが迫力を伴って実感できる。



鬱蒼として日当たりの悪い西曲輪にはうらぶれ感が漂っている。

ここには人質が住まわされていたというのが何となく納得できる。

そして野ざらしだけに蚊も凄い。

カメラを構えた瞬間、腕に1匹はとまっている。



枡形虎口
北側には枡形虎口の跡がかなり明瞭に残っている。

崩れかけた石垣は武田家滅亡後に入った徳川か豊臣系大名によって築かれたものらしい。



土橋
土橋を渡って外に出る。

味噌曲輪か
この辺りにも味噌曲輪などがあったらしいのだが、余りにも草ぼうぼうで判別できない。

辛うじてお稲荷さんを祀った稲荷曲輪が見つかったくらいだ。



館跡を背にして北に向かう。

小山田信茂屋敷跡
すると最後の最後に勝頼を裏切った小山田信茂の屋敷跡が今は駐在所になっている。

武田信廉屋敷跡
さらに北上すると信玄の弟、武田信廉の屋敷跡が、こちらは公園になっている。

彼は武将としてはほぼ無能だったが、我々にとって極めて貴重な物を遺してくれている。

それは父・武田信虎の肖像だ。

信虎晩年の肖像らしいが、老いてなお眼光異様なまでに鋭いその姿には強烈なインパクトがある。

この絵は信玄の父のキャラクターを理解するのに重要な手がかりを与えてくれる。



さらに北に進めば躑躅ヶ崎館が攻められた際の詰めの城である要害山城だが、僕らはこの後女房の家族と甲府城で合流することになっているので、駐車場に向かった。


ところでこの地に武田神社を建てた人たちは何がしたかったのだろう。

彼らが信玄を顕彰しようとしたことは間違いない。

それなのに実際にやったことは土塁を崩し、存在しなかった石垣を築き、架空の橋を架け、遺構から信玄の色とでもいうべき物を薄めてしまっている。

せめて西曲輪のように野ざらしにしておいてくれたらと思わずにはいられない。


遺構残存度4武田神社がなければ・・・
歴史的重要度5戦国スター武田信玄の城
景観3樹木の繁茂で眺望が遮られる
案内充実度3神社の外が充実

新府城2016年09月10日

長篠の大敗以来の弱体化で、織田信長軍の甲斐討入りが避けられないとみた勝頼は防御の手薄な躑躅ヶ崎館を捨て新城を築く決断をする。

それがこの新府城だ。



駐車場に車を置いて県道17号を歩いていると原っぱの中に方形に突起した地形が現れる。

東出構え
これが東出構えだ。



石段
さらに歩くと『史跡 新府城跡』という石柱と石段に至るのでこれを登る。

かなり急な石段だ。

本丸跡
息を切らせながら登りきったところが本丸跡で、神社が建っている。

さっきの石段はこの神社への参道なのだ。

本丸の周りは土塁で囲われている。

本丸からの眺望
ここからの眺めもいい。



最高地点である本丸から大回りしながら下りて行く。

立て札
『二の丸↑』とか『馬出↑』という立て札はあるが説明は何も無い上に夏草が生い茂っていてどこに何があるのかわかりにくい。

丸馬出し
予めネットで拾っておいた「想定復元図」を頼りに、丸馬出しだけは辛うじて確認できた。

これはなかなかの見応えだった。



結局さっきの石段とほぼ同じ所に下りて来た。

水堀跡
県道17号線を駐車場に向かって歩いていると、城とは反対側にいかにも遺構のような畝状の突起が見える。

これがかつての水掘の跡だ。



車に乗り、駐車場から国道17号線を突っ切って田んぼのあぜ道のような道を行く。

たどり着いた小さな駐車スペースが城の北西端らしい。

堀跡
水掘の跡らしき小川と土塁の跡が確認できる。



この城の完成を待たずに躑躅ヶ崎館から居を移した勝頼だったが、織田軍の来襲を前にして自ら城を破却して落ち延びてゆく。

未完の城では持ち堪えられないと考えたのだ。

この後の歴史を知っている者からすればいっそこの城で華々しく討ち死にでもした方がまだ良かったのにと思ってしまう。



遺構残存度3説明不足と夏草の繁茂で判別困難
歴史的重要度4名家武田氏最後の城
景観4本丸からの眺望
案内充実度2素っ気無い立て札。それさえあったりなかったり




この後、昇仙峡を観光してから躑躅ヶ崎館に行ったのだが、駐車場の関係で1時間足らずしか見学できなかったので翌日再訪することにした。