長篠城2015年10月11日

家族旅行の我ら一行6人を乗せたレンタカーを長篠城址史跡保存館の駐車場に停める。

長篠城址史跡保存館
帯郭址にある保存館で軽くお勉強。



言うまでもなく、ここ長篠城は織田・徳川連合軍が武田勝頼に大勝した「長篠の戦い」の発端となった城だ。

歴史的な重要性ゆえか日本百名城にも名を連ねている。



本丸址
保存館を出ると目の前が空堀に囲まれた本丸だ。

本丸の南側はJR飯田線でざっくりとえぐられてしまっているが、東側の土塁は良く残っている。
本丸の土塁
結構高さがある。

それでも1万5千の武田軍に対して籠城戦を戦うにしては小さな城だという疑問は残る。



説明版
本丸を貫くJR飯田線の鉄柵には武田軍の配置が掲示されていて、大体の位置関係がわかるようになっている。

あの陣地からこの城はどう見えたのだろうか。



それはそうと、こんな僻地の城にもかかわらず見学者が切れ目なくやって来る。

そこで保存館の人に女房の兄貴が

「さっき行った二俣城はガラガラだったのにこちらは凄いですね」

と声をかけると

「うちは日本百名城ですから」

とのこと。



車に乗り込み、城の南側、寒狭川と宇連川の合流地点にかかる牛淵橋へ。

事前情報によるとここは城の全景が見渡せる絶好地だとのこと。

長篠城
行って見るとなるほどこれは凄い。

二つの河川が形成した断崖に守られた要害だということが良くわかる。

水面にはわずかにもやがかかって妖気さえ漂っている。

遺構残存度3本丸の堀と土塁
歴史的重要度5余りにも有名な長篠の戦い
景観5牛淵橋からの絶景
案内充実度4立派な史料館


車をそのまま設楽原歴史史料館へ。



さっきの長篠の保存館でもそうだったが、ここでも鳥居強右衛門が大人気だ。

武田に囚われながら死を覚悟して城に向かって援軍が間もなく到着することを叫んだ強右衛門。

彼の磔の図を至るところで見かける。

この図、頭が上になっているが、本当は逆さまではないだろうか?

髪の逆立ちの説明がつくし、その方が逆さ磔にされながら口をへの字に結んだ強右衛門の強情さが際立つと思うのだが。

いずれにしてもこの図をキャラクター化したグッズはさすがに売ってなかった。



車に乗り込み設楽原古戦場に向かう。

あちこちで武田方の有名武将の墓や石碑を見かける。

馬防柵
ほどなく馬防柵を復元した古戦場に到着。

狭い。

こんな所に両軍合わせて5万人も布陣できたのだろうか。

東側は近年の植林で狭くなったらしいのだが。

それにしても三段撃ちなど無理なように思える。



古戦場にいる間、ゴォーという低い風の音が常に聴こえていた。

まるでこの地に散った武田の兵たちのうなり声のようだった。

二俣城2015年10月11日

我が家の3人プラス女房の両親と兄貴の6人でやって来た家族旅行。


最初に向かったのは浜松市の二俣城。


小さな山の中腹の駐車場に車を停める。


二俣城入り口
「史跡 二俣城址」という石柱のある緩い上り坂を歩く。


堀切
右手の谷は堀切だ。


喰い違い虎口
程なく喰違い虎口から本丸に入る。


本丸跡
削平地の隅っこに天守台が見える。

山城の天守台とは珍しい。

しかも石垣だ。


天竜川
天守台に上ると、この城を天然の要害たらしめた天竜川が樹木の隙間からわずかに見える。


今川義元亡き後、武田と徳川の草刈場と化した遠江のこの城では両者の凄まじい争奪戦が繰り返された。

長篠の戦いで惨敗した武田が弱体化して以降は徳川方の城となった。


家康の長男・信康が武田との内通を信長に疑われて切腹に追い込まれたのもこの城だ。

するとさっきの天守台の上がその舞台だろうか?

そこで信康が切腹した天正7(1579)年時点でこの城に天守が上がっていたかが問題になって来る。

戦国期の城に天守が登場したのは安土城が最初だという説がある(表記は天主)。

信長による安土城の建造も天正7年だから、その時点で二俣城に天守があったとは考えにくい。

しかし最初の天守は松永久秀が永禄3(1560)年に築いた多聞山城という説もある。

それならば19年後の二俣城に天守があがっていても不思議はない。


天守台の石垣
この天守台の野面積みの石垣を見ていると天正期には存在していたように思える。

すると信康はこの上で無念の腹を切った訳だ。


遺構残存度4珍しい山城の石垣天守台
歴史的重要度4武田vs徳川。さらに信康切腹
景観3樹木で眺望開けず
案内充実度3現地案内板はまずまず