二本松城2017年10月29日

二本松は土砂降り
今年初めて買った中古の軽自動車でやって来た福島旅行の2日目は土砂降りの雨。

ここ二本松城では今菊人形展というのを開催中らしいが、この雨では来る人なんていないんじゃないか?

ところが駐車場には思いのほかたくさんの車が停まっている。



水路の水
車を降りて駐車場を出ると石垣の下の水路を水が勢い良く流れている。



二本松少年隊
千人溜(せんにんだめ)という藩兵が集合するスペースから城に入るとすぐに二本松少年隊の銅像がある。



慶応4(1868)年の戊辰戦争。

新政府軍が二本松に迫った時藩の主力は各戦線に出払っており、お城はもぬけの殻も同然だった。

そこで急遽12歳から18歳の少年達が駆り出され戦線に投入された。

畳を2枚重ねて弾除けとし、「敵のへろへろ弾がこの畳を貫通するものか」と豪語して遠足気分でさえあった勇敢かつ稚い彼らは、威力に勝る敵の弾丸を受けて次々に斃れていった。

この戦闘で隊の責任者も戦死したため、何人の少年たちが若い命を散らしたのか今でもわからないらしい。



箕輪門
銅像の前を通り過ぎて観光案内所の出張所みたいな小屋でマップをもらい、緩い坂を上ると見事な石垣の箕輪門に突き当たる。

しかしこの箕輪門、石垣こそ当時の物だが、その上の建物は史実を全く無視したシロモノらしい。

安土城の総普請奉行をつとめた丹羽長秀の嫡孫光重が築いた石垣が泣いている。



綾瀬はるかの菊人形
その門では早速菊人形が迎えてくれるのだが、人形のモデルは明らかに綾瀬はるかだ。

会津を主舞台とした大河ドラマ『八重の桜』の主演女優だった彼女はこの辺りでは特に愛されているのだろうか。



箕輪門をくぐり、折れ曲がった坂を上ると三の丸。

ここが菊人形展の会場になっている。

娘が見たがっているので入場料700円(中学生以下無料)を払って入って見る。

菊人形
沢山の人が、服の代わりに菊の花を身にまとったマネキン人形を見ている。

申し訳ないが、正直なところ僕自身菊人形には何の興味も持てなかった。



洗心亭
三の丸には上段と下段があり、上段の一番奥に菊人形展の出口があったのでそこから出て坂を上って城内唯一の近代以前の建物である洗心亭という茶亭を見る。



さらに坂をどんどん上る。

瀧
城内至るところに滝がある。

山城だというのに水が豊富な城である。

と思っていたら「二合田用水」の説明版があり、それによると何とこの水は西方18kmの安達太良山中腹から引いて来ているのだそうだ。



新城館
さらに折れ曲がった石段を上ると新城館という削平地に出る。

ここは中世の二本松城の中心部だったらしい。



戦国時代の二本松城は二本松氏の城だった。

天正13(1585)年、伊達政宗の攻勢に耐えられず降伏の仲介を政宗の父輝宗に頼みに行った二本松義継は何とその場で輝宗を拉致して二本松に向かうも、駆けつけた政宗に輝宗もろとも射殺される。

翌天正14年には城方自ら火を放って開城した。

その時の物と見られる焼けた土や木材が発掘調査でここから大量に出土したそうだ。

城代として入城した伊達成実が焼け跡の後始末をしたという記録とも一致する。

生々しい歴史の遺物だ。



少年隊顕彰碑
またここは砲術道場で学ぶ少年達が稽古にはげんだ場所でもあったそうで、いちばん奥には少年隊顕彰碑が建っている。



搦手門
搦手門跡の石垣を見ながらまた石段をジグザグに上る。

本丸石垣
すると天守台のような石垣が見えて来る。

しかしこれは天守台ではなくて、この上のスペースが本丸なのだ。



枡形虎口
枡形虎口から本丸に入る。

オブジェ
東櫓台の上に巨大な猫のオブジェが建っている。

天守台の上にはオノ・ヨーコの

雷鳴にはむかう空

雷雨の中に空を作りなさい。

とだけ書かれた凡人には理解困難なアート作品もある。

これらの物がここに必要かどうかも理解できない。



自尽の碑
天守台の下には「丹羽和左衛門 安部井又之丞 自尽の碑」が建っている。

説明版によると戊辰戦争で落城した際にここで切腹した両名の供養碑で、当初は天守台に建っていたが、平成7年の本丸石垣修築復元工事の完成に伴って天守台の下に下ろされたとのことだ。

今その天守台上にあるのがオノ・ヨーコの作品だ。



本丸からの眺め
しかしこの本丸からの眺めは素晴らしい。

雨にけぶる二本松市街を見ているとこの城の雅号が「霞ヶ城」であったことを思い出した。



ところでこの本丸の石垣は江戸期に入封した加藤氏の築いた物だが、その内部にはそれ以前の城主・蒲生氏の石垣が眠っていることが調査で判明したそうだ。

貴重な遺構でもあるのでビデオ撮影してから慎重に埋め戻したとのことだ。

その真面目さがありながら何故史実無視の箕輪門など造ってしまったのだろう。

箕輪門、菊人形、アート作品という露骨な客寄せ主義と学究的な真面目さが混在する奇妙な城だった。

二本松の観光課と教育委員会はどんな関係なんだろう?

そんな大きなお世話を考えながら山城を下りた。



遺構残存度3史実無視の箕輪門で減点
歴史的重要度4政宗と戊辰戦争の合わせ技
景観4余計なオブジェで減点
案内充実度4真面目に頑張っている

猪苗代城2017年10月28日

大手口の石垣
車を駐車場に停めると、すぐに大手口多聞櫓台の石垣。

近世城郭にしては古格な味わいの野面積みだ。

枡形
もちろん枡形を形成して石段へと続く。



帯郭法面の石垣
その石段を登りきると帯郭法面の石垣に突き当たる。

震災の影響なのか、かなりの孕みが見られ一部崩落もしている。



猪苗代城は本丸と二の丸を帯郭が取り囲む構造になっている。

北帯郭
その帯郭を反時計回りに進むとすぐに北帯郭に出る。

中世の猪苗代城
外側は土塁に囲まれているのだが、その切れ間から向かいにこんもりした丘が見える。

どうやらそこが中世の猪苗代城(鶴峰城)のようだ。



猪苗代城は戦国時代までの400年間猪苗代氏の城だった。

摺上原の戦いで伊達政宗の側についた猪苗代盛国は、その後伊達氏の岩出山移封に従ってこの地を去る。

そのあたりまでが鶴峰城の時代だったらしい。

以後蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明らを経て、江戸期には会津藩の重要拠点として一国一城令下にあって例外的に会津若松城と共に存在し続けた。

それが今僕が立っている近世の猪苗代城(亀ケ城)だ。



南帯郭
北帯郭から西帯郭を経て南郭に入った。

紅葉が美しい。

空堀
土塁の外には大きめの空堀がある。

南帯郭からの眺望
さらに土塁の上からは田園地帯の向こうに猪苗代湖を見る事ができる。



二の丸
南帯郭から坂を上ると二の丸に出る。

本丸への石段
さらに短い石段を上って本丸へ。

本丸から北を望む
土塁に囲まれた削平地から北に向かって見える山は赤埴山だろうか。

その背後にあるはずの会津磐梯山は雲に隠れて全く見えない。



幕末の戊辰戦争では、猪苗代城から北東13kmほどの母成峠が新政府軍に破られたとの報に接するや城代高橋権太夫は最早この城を支えるのは不可能との判断で自ら火を放って退却。

ここに猪苗代城はその600年の歴史に幕を閉じた。

今日この城に着いてから一通り見て回るのにかかった時間はほぼ1時間。

確かに新政府軍の攻撃を一手に引き受けられるだけの規模はないように思える。



遺構残存度4大手口の石垣等見所豊富
歴史的重要度3戊辰戦争では不戦敗
景観4城内の紅葉と南郭からの眺望
案内充実度3素っ気無い

松本城2017年04月26日

車を松本城より南のパルコの有料駐車場に入れ、北に向かって歩き始める。

女鳥羽川
10分足らずで江戸期から明治にかけて舟運が盛んだった女鳥羽川に突き当たるので、橋を渡らずに河沿いを東に向かう。

大手枡形跡
最初に出会う千歳橋を渡った所が松本城の大手門の跡で、枡形の跡が現在の車道にもはっきりと残っている。



ここからが城内で、往時は武家屋敷が並んでいたが現在ではビルが建ち並んでいる。

大名町通りを真っ直ぐに北へ進む。

大名町通りからの景観
途中交差点を渡る時に左を見ると遠くの雪を冠った山々が見えたりする。



松本城入り口
すぐに城の入り口に突き当たり、国内外からの観光客がぞろぞろとそこから入ってゆく。

しかし上級者はこんな所から入ったりしない。

なぜなら往時ここに入り口など無かったからだ。

太鼓門
湧き水を湛える外堀に沿って右側にぐるりと回って平成に復元された太鼓門から二の丸に入った。



二の丸御殿跡
入って右が二の丸御殿跡。

左に進むと内堀の向こうに天守が見えてくる。

松本城天守
黒を基調とした現存天守の圧倒的な存在感。

彼方には雪の残る北アルプス。

素晴らしい。



天守そっちのけで砂利を集めて遊んでいる娘を引っ張って土橋を渡り、昭和期に復元された黒門から本丸に入る。

黒門枡形
枡形では兜武者が道案内をしたり、記念撮影に応じたりしている。

特に外国人に人気だ。



本丸
だだっ広い本丸を天守に向かって歩く。

松本城の天守は、中央の大天守、向かって右の乾小天守、左の辰巳附櫓と月見櫓が連なる大変珍しいスタイルとなっている。

元々この地には小笠原氏の深志城があった。

それを武田信玄が大規模に改修し、武田氏滅亡後にカムバックした小笠原氏が松本城に改称。

豊臣の世になって入封した石川氏が現在の大天守と乾小天守を築造。

さらに、寛永10年(1633)に入封した松平氏が辰巳附櫓と月見櫓を増築した。

この時大阪の陣からほぼ20年。

月見櫓の紅い回縁は平和な時代の象徴にも思える。



天守内部
天守内部に入ってみる。

埋橋
大天守の窓から朱塗りの埋橋が見える。

元々あった橋の構造がわからないので想像で復元(?)されたらしい。



月見櫓
さらに上の階からは月見櫓が見える。

やはりこの優美さと華やかさは城としては異質である。



最上階からの眺望
さらに、急な階段を這いつくばるようにして最上階まで上ると素晴らしい眺望を堪能できる。

ただし、かなり寒い。

表の気温は15℃ほどあるのだが、天守内部は陽が当らない上に風が良く通る。

板敷きの床の冷たさが時間を追うごとに足の裏にこたえてくる。

早々に下りることにした。



本丸を出て二の丸を西へ向かう。

右手に天守。

二の丸公園から見た天守
どこから見ても絵になる。

絵にならざるを得ない。

本当に素晴らしい城だ。

国宝も当然。



二の丸の西南角から外の通りに出る。

武家屋敷発掘調査現場
するとそこでは発掘調査が行われていた。

三の丸の武家屋敷の遺跡だそうだ。

これは発掘調査が終わると遺構として残されるのだろうか?

それともこの上に何か建物が建つのだろうか?



西総堀土塁公園
この道を南に下ってゆくと右手に西総堀土塁公園がある。

市街地の中にかつての土塁の痕跡が残されている。

しかし植え込みなどが整然とし過ぎているせいか遺構という雰囲気は乏しい。

消滅した遺構の上に造成した宇都宮城の土塁と区別がつかない。

これはもったいない保存のし方かも知れないと考えながらパルコの駐車場へと向かった。



遺構残存度5圧倒的な現存天守の存在感
歴史的重要度3松本城としての実戦経験はなし
景観5北アルプスを借景とする天守
案内充実度4過不足なし

大田原城2017年04月16日

花見とドライブを兼ねて東北自動車道を栃木県大田原市の大田原城に向かう。

車はレンタカーのダイハツMOVE。

同じダイハツの軽自動車TANTOよりも車高が低く、フォルムも流線型に近いのでこちらの方が高速道路は走りやすい印象を持った。



矢板インターで高速を下り、目的地の大田原城とは目と鼻の先まで来たところで通行止め。

今日は地元のお祭りで、通行止めの先を大きな山車が通っている。

係員の指示に従って近くの大田原小学校の運動場に車を停めてお城まで歩いてアプローチする。

大田原城
5分ほどで突き当たる小高い山が大田原城だ。

桜は満開。



三日月堀
城に入るとすぐに明らかな土塁と三日月堀が迎えてくれる。

門の跡らしき土の盛り上がりもある。

少し登ったところに説明版があり、その中の縄張り図をiphoneで撮っておく。

これはその後非常に役に立った。



その縄張り図を見ながら二の丸へ。

二の丸跡
長屋と弾薬庫が建っていたスペースに現在では戦没者の慰霊碑と地元の偉人のモニュメントが並び建っている。



空堀をめがね橋で渡って本丸へ。

本丸跡
娘の通う区立小学校の校庭よりもはるかに広いスペースの外周を土塁が取り囲んでいる。

まずはその土塁の上を歩いて見る。

本丸土塁上からの眺望
平山城の斜面の桜、大田原市街、遠くの雪を冠った山並みまでが見られて中々の眺望だ。



4分の3ほど回ったところで土塁を下りて本丸にレジャーシートを敷いて花見らしきことを始めてみる。

本丸跡の桜
ここは地元では定番のお花見スポットということなのだが、今日はお祭りの方に人が出払ったのか人出は少ない。

売店の類もない。

それを当てにして飲食物を何も持って来なかった僕らはただ座ってひたすら桜をめでる。

娘はずーっとゲームをやっていた。



お花見を切り上げて立ち上がる。

一旦本丸を出て、本丸の東側の土塁の外に設えられた遊歩道を北に向かう。

蛇尾川
右側の藪の隙間から蛇尾川が見える。

これが実質的な外堀だろう。



遊歩道は土塁の上を通り、北曲輪に入る。

北曲輪跡
ここは現在児童遊園のようになっており、うんていとブランコがある。

娘は早速ブランコをこぎ始めた。



iphoneで縄張り図を見ると北曲輪のさらに北に連続してもう一つ北曲輪がある。

これも北曲輪跡か
土塁の外に広がる農地がその跡らしい。

その農地の先を通る道路は堀の跡と思われる。

その道路の上を陸橋で渡って向かい側の大田原神社に行ってみた。

ここも何かの遺構ではないかと思ったが、それらしい物は確認できなかった。



大田原城は天文14年(1545)、大田原資清によって築かれた。

以来明治4年(1871)の廃藩置県までの326年間、一貫して大田原氏の居城であった。

戦国期から明治維新まで城主が変わらなかった城は他にもあるのだろうか?

今ちょっと思いつかない。



遺構残存度4小さな山の堀・土塁・曲輪
歴史的重要度3大田原氏326年の城
景観4本丸土塁上からの眺めと桜
案内充実度3石版に彫った文字が読みにくい

横須賀城2017年02月26日

掛川市南部にある横須賀城は異色の城である。

石垣に丸い天竜川の川原石が使われているのだ。

櫓門跡の石垣
駐車場を出てすぐの本丸南櫓門跡の石垣が普通の城とは全く違う。

違い過ぎてお城という感じが余りしない。

あるはずの枡形もよくわからなかった。



天守台跡
意外に広い本丸には天守台があり、発掘調査に基づいて天守の礎石と縁石が復元されている。



本丸南東の高石垣
本丸南東にも丸石の高石垣が復元されている。

しかし発掘調査の通りであっても、復元に現物の生々しさは望むべくも無い。



三日月堀
三日月堀の脇を通り、さらに東に向かうと東大手門跡が民家と民家の間に挟まれているのに達する。

東大手門跡
内側から見ると枡形の跡が見てとれた。



北の丸に向かう
本丸と、現在は竹やぶとなっている三の丸の間を通って北の丸に向かう。

松尾山
北の丸には松尾山という小山がある。

ここも重要な防御施設だったらしい。

土塁跡
土塁の跡などが残っている。



堀の跡らしき道
城の南を通る細い道は堀の跡と思われる。

さらに1本南の道がかつての街道で、そこが入り江の海岸線でもあったらしい。

今では干拓されて平坦な農地がはるか南まで続いている。



横須賀城は武田勝頼に奪われた高天神城奪回のために徳川家康が大須賀康高に築かせた。

その後城主をくるくると替えながら廃藩置県まで続いた。

どの時点で石垣に川原石が使われたのかはよくわからない。



遺構残存度3丸い石垣と各曲輪
歴史的重要度3高天神城奪還の城
景観3丸い石垣の珍景
案内充実度3説明版充実。縄張り図があれば