飛鳥・藤原京2018年02月11日

岡山
朝、岡山という山の中腹にある民宿若葉の窓からはひっそりとした山里の家並みが見える。

岡寺の三重宝塔
その民宿をチェックアウトして右(山側)の急坂の上を見るとこんな山中に不似合いなほど立派な塔が建っている。

これは天智天皇の勅願によって創建されたという岡寺の三重宝塔だ。

天武天皇と持統天皇との間の子である草壁皇子の宮の跡でもあるらしい。

何気ない風景の中にとんでもない歴史が潜んでいたりする。

油断ならない。



ナビゲーション・システムに「石舞台古墳」を指定する。

当然民宿を出て左、つまり山を下りる方向に進むのかと思いきや右に進ませる。

怪訝に思いながらも岡寺に向かって急坂を上ると寺の手前で右折する。

「万葉の散歩道」という立て札が建っている。

なるほど万葉の花や風景に想いを馳せながら歩くには絶好の道のようだが、車で走るのは考え物だ。

舗装はしてあるものの車1台が通るのがやっとな道幅で、その外側は崖だ。

もちろんガードレールなどない。

もし対向車が来たらどうしたらいいのだろう。



慎重に車を走らせていると右側に飛鳥の里が見えてきた。

飛鳥
じっくりと見れば極めて面白い風景の筈だが今その余裕は無く、車を停めて窓から写真を撮るのがやっとだった。



上居
やがて車は坂を下り、青年時代の聖徳太子が馬で走り回っていたという上居じょうご集落を過ぎる。

そして観光地らしく整備された駐車場にたどり着いた。

ここが石舞台古墳だ。



大人250円、小学生100円を払って見学する。

石舞台古墳
丘の中腹に四方を堀に囲まれた方形の削平地があり、その中心に巨大な石で組まれた墓がある。

元は地中にあった物が何らかの理由で露出してこのような状態になったらしい。

石室内
石室に入ってみると迫り来るような巨石の迫力に圧倒される。

この墓の主は聖徳太子と同時代の最高実力者、蘇我馬子だという説が最有力らしいが、たしかにちょっとやそっとの権力ではこの墓は築けないだろう。



次は飛鳥宮跡へ向かう。

途中、集落の中の路地のような道をいくつも通る。

そのどれもがいい雰囲気だ。

微妙に湾曲したヒューマンスケールの道の両側に民家が肩を寄せ合うように建ち並ぶ。

旧街道を歩いている時だったら何枚も写真を撮るようなロケーションンが連続する。

ただし今は運転中なので1枚も撮れなかった。



飛鳥宮跡
やがて農地の中にポツンと存在する宮跡にたどり着いた。

ここには4つの時期の遺跡が重複している。

その中の一つに飛鳥板蓋宮いたぶきのみやがある。

中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の舞台だ。



大井戸跡
現在復元されている石敷広場や大井戸跡は最も上層の飛鳥浄御原宮きよみはらのみやの物。

壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となった地だ。

様々な古代史上の重要な事件が起きたその現場に今立ちながら、この静かな盆地でそれらをイメージすることは甚だ難しい。



ここで予定外だが高松塚古墳に向かう。

修学旅行で石舞台古墳に行ったことがあると言い張る女房だが、彼女の記憶ではそこで壁画を見たらしい。

さっき行った石舞台古墳に壁画はない。

どうやら高松塚と混同しているようなので、それを確かめに行くことにしたのだ。

ところが到着してみると駐車場から古墳まで片道700mもあるということなので、隣接する飛鳥歴史公園館の展示で女房の記憶違いを確認だけして次の目的地、甘樫の丘に向かった。



天武・持統天皇陵
すると途中に見覚えのある丘の上の鳥居が。

あれはきっと天武・持統天皇陵だ。

石段の上り口まで来てみると車を停めるスペースがあったのでそこで車を降りると確かに「天武・持統天皇陵」という説明版があった。

まったく油断ならない。



石段を上って陵の周りを一周する。

さっきの石舞台古墳に比べれば質素に見える。

この墓は鎌倉時代に盗掘に会い、天武天皇の遺体は棺から引きずり出され、史上初めて天皇として火葬された持統天皇の骨壷は持ち去られ、遺骨は邪魔なのでその辺に捨てられた。



道草を食いながら甘樫の丘のふもとに着いた。

上り口の駐車場には駐車料金500円と表示されてはいても、どこに払えばいいのかわからない。

近くで車を洗っていた人に尋ねて「そこの家」と指差した立派なお宅の門のインタフォンを押すと、中からおじさんが出て来て500円と引き換えに駐車券を渡してくれた。



天樫の丘展望台
駐車券を車に置いて石段を上り、甘樫の丘展望台に着いた。

ここからは飛鳥一帯が見渡せる。

大和三山、二上山、三輪山の位置関係をこの目で確かめられる。

さらにここは蘇我氏の邸宅があったらしい。

ということは蘇我入鹿を殺した後、中大兄の軍勢はこの地をとり囲んだのだろうか。



この次は、天武天皇が妻の鸕野讃良皇女うののさららのひめみこ(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立したという薬師寺(平城遷都に伴って奈良に移転して現在に至る)の跡、本薬師寺に向かい、何とか見つけたもののとても車を停められる場所ではなかったのでそのまま通り過ぎて藤原宮跡に向かった。



地元JAの2階にある資料室で予習をしてから目の前の現地へ。

藤原京跡
とにかくだだっ広い。

だだっ広い原っぱに発掘調査に基づく建物跡を赤い柱で示している。

風がびゅーびゅー吹き抜ける。



藤原宮は天武天皇の遺志を継いだ持統天皇が造営した宮だ。

香具山
ということはここから見える香具山は万葉の古歌

春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山


に詠まれた香具山そのものだ。

あのこんもりした山に白い衣が乾してあったのだろうか。

それとも積もった雪を半分やせ我慢して夏の衣に見立てたのだろうか。



再び車に乗って藤原宮の北の端から南の端に移動する。

朱雀大路跡
そこには平城宮と同じように朱雀大路があった。

その跡が住宅地の中に辛うじて残っている。

南門跡と大極殿跡
真北を見ると南門跡を示す柱と、大極殿跡を示す柱が直線状に並んでいる。

この点も平城宮と共通していることがわかると共に、さっき見てきた飛鳥の宮とは隔絶している、日本で初めて中国の坊条制を取り入れた都城であることが実感できる。



今回の旅で最後に向かったのは吉備池廃寺というところだ。

万葉集にある大津皇子の歌

百伝ふ 磐余いはれの池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ


に歌われた磐余の地がここではないかと言われている。



天武の晩年、皇太子は鸕野讃良との間の皇子、草壁と定められていた。

ところが天武が崩じた直後、天武と太田皇女(鸕野讃良の実姉)の間の皇子、大津が謀反の罪で捕らえられ、処刑される。

この事件、あらゆる面で凡庸な草壁を大きく上回って人望もあった大津をわが子草壁即位の障害と見た鸕野讃良の謀略という説が有力だ。

捕らえられた大津が自らの死を覚悟して詠んだ歌がこれなのだ。



吉備池廃寺
平和な児童遊園の脇を抜けて池のほとりに立つ。

この池は農業用のため池のようだ。

風が吹き付けて池の周りの葦が揺れている。

この荒涼たる風景から往時をイメージするのは難しい。

しかし風の音に大津の無念の声を聞いたように感じたのは勿論現代の旅人の勝手なセンチメンタリズムに過ぎないだろう。



大来皇女歌碑
池のほとりには大津の姉、大来皇女の歌碑があった。

うつそみの ひとにあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世いろせとわが見む


「現世に生きる自分は大津が葬られた二上山を弟として見よう」という歌だ。

歌碑の背後彼方にはその二上山が見えた。

東大寺・平城宮跡2018年02月10日

東京から夜通し車を走らせて奈良市に到着。

しかし最初の目的地である東大寺へ行くのに適当な駐車場を探しているうちに東大寺を通り過ぎて春日神社の前まで来てしまったので、仕方なく春日神社の有料駐車場に車を停めて小雨の中を東大寺まで歩くことにした。



南大門
奈良公園を鹿のフンに気をつけながら歩いていると中国人観光客の向こうに南大門が見えてきた。

鎌倉時代に建てられた国宝の門をくぐると正面に中門があってそこで大人600円・子供300円を払って大仏殿に向かう。

さすがに鹿はもういない。



大仏殿
江戸期に再建された国宝の大仏殿の中で大仏様と対面する。

相次ぐ疫病・飢饉・政情不安を自らの不徳と思い悩んだ聖武天皇が救いを求めて発願した盧舎那仏るしゃなぶつの造立は天皇と光明皇后の主導権争いや当時の複雑な政局にもみくちゃにされた末にここ東大寺で実現した。

大仏様
そして今、目の前に座っている。

実際に相対してみると巨大さはさほど感じない。

従って威圧感もない。



娘が大仏様の鼻の穴と同じ大きさだという柱の穴をくぐったりおみくじを買ったりするのに付き合ってから駐車場に向かった。



BOSEスピーカー
余談だが大仏殿にあったイベント用のスピーカーのメーカーは、お寺だけにもちろん「BOSE(ボーズ)」だった。



平城宮の目の前にある彩華ラーメンで昼食。

結構な人気で、30分近く待った。

現在価格高騰中の白菜がたっぷり入ったラーメン。

ニンニクが効いた辛口でなかなかの美味。

店を出ると雨は本降りになっていた。



平城宮跡には南の端に位置する朱雀門から入りたかったが、駐車場が見つけられずに仕方なく北の端まで回って平城宮資料館の駐車場に車を停める。

まず資料館で勉強する。

売店では資料館で展示している内容をまとめた本を売っていたので買っておく。

こういう資料館でさっと見た物はほとんど頭に残らないのでこれはありがたい。



資料館を出て第一次大極殿に向かう。

大極殿
葦の向こうに2010年の復元建物が見えてきた。

中国の影響の色濃い意匠の建物だ。



ここは天皇が出御して儀式や外国の使節をもてなしたりした平城宮で最も重要な場所である。

玉座
内部には天皇の玉座が復元されている。

これは現存する大正天皇即位時の物を参考に復元したそうだ。



朱雀門
バルコニーに出ると正面(南)に朱雀門が見える。

このラインの延長線上20kmに平城京のひとつ前の都、藤原京があった。

東西には山が連なり、背後の北にも山が迫っている。

このように三方を山に囲まれ、南だけが開けた地勢が当時の都選定の宗教的な条件だったらしく、平安京でも踏襲されている。



大極殿を出て、冷たい雨の中を朱雀門に向かう。

工事中
最短距離を突っ切って行くつもりだったが、現在平城宮跡では平城宮跡歴史公園の3月24日開園に向けた工事の真っ最中らしくあちこちが行き止まりになっていて史跡の外周をぐるりと回る羽目になった。



式部省跡
近鉄奈良線の踏み切りを渡ると文官の人事を担当した式部省の跡が高さ50cmほどの柱と塀で復元されてはいるらしいのだがコンクリートがうら寂しく、うち捨てられた児童遊園の風情だった。



朱雀門から北を見る
朱雀門に立つと北は大極殿、

朱雀門から南を見る
南は藤原京方面に向かって75m幅の朱雀大路が延びている。

朱雀門
ここで唐や新羅の使節を送迎したり歌垣などのイベントを催したり、正月には天皇がここまで出向いてお祝いをすることもあったそうだ。



近鉄奈良線踏み切り
そこからまた踏み切りを渡って資料館の駐車場に戻った。

そして明日香村の奈良県立万葉文化館に向かい午後5時1分に到着。

すると入館は5時までということで、展示室には入らせてもらえなかった。

本日の予定は残念な終わり方だった。

八王子城2017年12月02日

八王子城は小田原北条氏の三代目氏康の三男、北条氏照が築いた山城。

天正18年(1590)の秀吉による北条征伐の際に前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城。

これが籠城する小田原城を開城させる決め手となった。



今日は家族3人でその八王子城を見学する。

事前情報ではかなりハードな山城だということなのでハイキング・レベルの服装と靴ででかけた。



ガイダンス施設
駐車場に車を停めてまずはガイダンス施設へ。

ここで八王子城のマップを入手。

さらに城の歴史についてコンパクトにまとめられたビデオを見たり、トイレを済ませたりしてから城跡を歩き始める。



もらったマップの説明によると八王子城は大まかに3つのエリアに分かれるそうだ。
  • 戦闘時に要塞となる要害地区
  • 城主氏照の館があり生活の中心になっていた居住地区
  • 城の城下町にあたる根小屋地区
このガイダンス施設や駐車場は根小屋地区にあたるらしい。

空堀跡か
そう思いながら施設の裏の土塁のような盛り土の上から外を見ると空堀跡のようなV字のくぼみが認められる。



左へ
ガイダンス施設を出るとすぐに道が二手に分かれる。

右は要害地区(本丸跡)への道、左は居住地区(御主殿跡)への道だ。

まずは左に道をとって御主殿跡へ向かう。



城山川が左に並行する道を進むと小さな橋があって川の反対側に出る。

大手門跡
そこから少し斜面を上った所に大手門跡がある。

ここから御主殿に向かって古道が伸びている。

現在大手門の反対側に道はないが、往時は城山川の下流に向かって続いていたということだ。

確かに道の痕跡らしき物が認められる。

さっきまで歩いていた対岸の道は江戸時代に作られた林道だそうだ。



御主殿跡
古道を歩き、曳橋を渡って再び城山川の対岸に行くとそこが御主殿跡だ。

階段
虎口は橋のたもとから御主殿内部までの高低差9mを「コ」の字型の階段通路として全面を石垣で固めている。

この石垣は発掘調査で検出した物をできるだけ使用して復元した物。



御主殿跡
階段を上りきると芝生広場に出る。

ここに北条氏照の屋敷や会所や庭園があったらしい。

しかしそれにしてはここは谷の奥まった所で日当たりも良くない。

城主の館にふさわしいロケーションとは思えないのだが。



ここは発掘調査を重点的にやったらしく、その成果をいくつもの説明版で詳しく説明している。

八王子市の熱意が感じられる。



御主殿の滝
御主殿跡を出て御主殿の滝を見る。

天正18(1590)年の秀吉軍の攻撃で落城する際は、御主殿にいた女子供・将兵がこの滝の上で自刃して次々に身を投げた。

それから3日間この川の水は赤く染まったままっだったそうだ。

今この滝に身を投げるほどの水量はない。

ただし透明度は凄く高い。



そこからさっき道が二俣に分かれていた地点までは江戸期の道の方を辿って戻りたかったが、そっち方面から引き返してきた人が

「この先は通行止めになっている」

と教えてくれたので仕方なく来た道を辿って戻った。



管理棟
枝分かれ地点には管理棟があり、その前には

“「北条五代」を大河ドラマに!”

と書かれたのぼりが立っている。

僕もその大河ドラマ是非見たい。

ただし脚本は田渕久美子先生と小松江里子先生以外でお願いしたい。



12:02PM、ここからは本丸(要害地区)に向かって歩く。

つまり山城域だ。

山城に入る
林の中の土橋を渡ると古ぼけた鳥居の向こうにかなり急勾配な石段が伸びている。

その石段を上っていると両側に曲輪らしき小さな削平地がいくつも見つけられるが、説明は何も無い。



排水路
坂道には箱根の旧東海道などで見られた石の排水路もいくつか見られた。



金子曲輪
鳥居から10分ほどで金子三郎左衛門家重が守っていたという金子曲輪に着く。

曲輪といっても大した広さではない。



柵門跡
そこから10分ちょっとで柵門跡という詳細不明の小さな削平地に出た。

ここから今まで通った削平地群を通らずに一気に麓まで下りる古道が伸びている。

帰りはこの道を使うつもりなので覚えておく。



つづら折れの坂道
そこからさらにつづら折の坂道を10分ほど上ると左側の視界が一気に開ける。

八王子城からの眺め
八王子市街はもちろん、都心のビル群まで見渡せる素晴らしい眺望だ。

微妙ではあるが地球の丸さも感じられる。



松木曲輪へ
そこから10分ほど比較的緩やかな坂を上って松木曲輪に至る。

中山勘解由家範かげゆいえのりが守っていたが、前田利家の軍勢に攻め落とされる。

しかしその時の家範の奮戦振りが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられて水戸徳川家の家老にまでなったそうだ。



ここで昼飯のコンビニおにぎりを食べる。

1:00PM。



本丸跡
松木曲輪から八王子神社や小宮曲輪を見ながら5分ほどで本丸に辿り着く。

大した広さではないので大きな建物は無かったと思われる。

樹木に遮られて眺望は開けていない。



と、そこへ女性2人組がやって来た。

詰城つめのしろへ行く道を知りませんか?」

聞けば詰城へ向かう本来の道にロープが張ってあって通行止めになっているので、それなら本丸から行く道はないかと探しに来たそうだ。

詰城にはこれから行くつもりなので一緒に広くない本丸をぐるっと回ったがそれらしい道は見つけられなかった。



どうしようかと思案にくれる二人を残して僕らは本丸を下りて松木曲輪の下の小さなくぼ地に出た。

ここから詰城への道が伸びている。

詰城へ向かう
途中で通行止めになっているかも知れないのでどうしようかと迷ったが、今まで上り坂を文句をたれながら登っていた娘がやにわに冒険心を起こして行きたがったので草の間の道をまず下りて行った。



下りてすぐに井戸のある小さな削平地があり、その先で道は二手に分かれている。

そして詰城とは反対方向への道にロープが張られている。

さっきの2人組はこれを勘違いしたのだろうか?



アドベンチャーな道
この先詰城へと向かう道は幅約30cm、右は山肌、左は崖というかなりアドベンチャーなシチュエーションに。

自分が先頭に立ち、娘をはさんで最後尾に女房がつく形で慎重に歩く。



堀切跡か
井戸から10分で堀切らしき土地がえぐれた場所に着いた。

石が散乱する尾根道
そこから先は尾根道となる。

ところどころ大きな石が割れて散乱しているのは石垣の名残だろうか。



詰城跡
本丸を出てから30分ほどで詰城跡に着いた。

ここもさして広くは無い。

石が散乱する
ここにも割れた石が散乱しているのは石垣の名残だろう。

しかし昭和40年に農林省がここに立てた石柱に「史跡 八王子城天守閣跡」と書いてあるのはいただけない。

どう考えてもこの狭いスペースに天守などあるはずがない。

ここは城の背後を守るための出丸のようなものだったのではないだろうか。



そこから引き返して柵門跡で予定通りにここから古道の方を進んだ。

これは林の中の道だ。

古道
林の中をジグザグに下りて行く。

石垣
法面を石垣で固めた跡も見られた。



後半は道がV字状にえぐれて、しかも赤土が湿って足をとられる。

何度もしりもちをつきながらやっと鳥居の地点まで戻った。

3:30PM。

1時間遅ければ林の中で日没を迎えるところだった。



麓の居館と山上の要害という戦国の城の特徴が良く分かる城だった。

しかし山城域の遺構は明瞭ではなかった。


遺構残存度4戦国期の城の特徴を良くとどめる
歴史的重要度4落城で北条氏の命運を決した
景観5山城からのすばらしい眺め
案内充実度4要害地区はやや手薄か

二本松城2017年10月29日

二本松は土砂降り
今年初めて買った中古の軽自動車でやって来た福島旅行の2日目は土砂降りの雨。

ここ二本松城では今菊人形展というのを開催中らしいが、この雨では来る人なんていないんじゃないか?

ところが駐車場には思いのほかたくさんの車が停まっている。



水路の水
車を降りて駐車場を出ると石垣の下の水路を水が勢い良く流れている。



二本松少年隊
千人溜(せんにんだめ)という藩兵が集合するスペースから城に入るとすぐに二本松少年隊の銅像がある。



慶応4(1868)年の戊辰戦争。

新政府軍が二本松に迫った時藩の主力は各戦線に出払っており、お城はもぬけの殻も同然だった。

そこで急遽12歳から18歳の少年達が駆り出され戦線に投入された。

畳を2枚重ねて弾除けとし、「敵のへろへろ弾がこの畳を貫通するものか」と豪語して遠足気分でさえあった勇敢かつ稚い彼らは、威力に勝る敵の弾丸を受けて次々に斃れていった。

この戦闘で隊の責任者も戦死したため、何人の少年たちが若い命を散らしたのか今でもわからないらしい。



箕輪門
銅像の前を通り過ぎて観光案内所の出張所みたいな小屋でマップをもらい、緩い坂を上ると見事な石垣の箕輪門に突き当たる。

しかしこの箕輪門、石垣こそ当時の物だが、その上の建物は史実を全く無視したシロモノらしい。

安土城の総普請奉行をつとめた丹羽長秀の嫡孫光重が築いた石垣が泣いている。



綾瀬はるかの菊人形
その門では早速菊人形が迎えてくれるのだが、人形のモデルは明らかに綾瀬はるかだ。

会津を主舞台とした大河ドラマ『八重の桜』の主演女優だった彼女はこの辺りでは特に愛されているのだろうか。



箕輪門をくぐり、折れ曲がった坂を上ると三の丸。

ここが菊人形展の会場になっている。

娘が見たがっているので入場料700円(中学生以下無料)を払って入って見る。

菊人形
沢山の人が、服の代わりに菊の花を身にまとったマネキン人形を見ている。

申し訳ないが、正直なところ僕自身菊人形には何の興味も持てなかった。



洗心亭
三の丸には上段と下段があり、上段の一番奥に菊人形展の出口があったのでそこから出て坂を上って城内唯一の近代以前の建物である洗心亭という茶亭を見る。



さらに坂をどんどん上る。

瀧
城内至るところに滝がある。

山城だというのに水が豊富な城である。

と思っていたら「二合田用水」の説明版があり、それによると何とこの水は西方18kmの安達太良山中腹から引いて来ているのだそうだ。



新城館
さらに折れ曲がった石段を上ると新城館という削平地に出る。

ここは中世の二本松城の中心部だったらしい。



戦国時代の二本松城は二本松氏の城だった。

天正13(1585)年、伊達政宗の攻勢に耐えられず降伏の仲介を政宗の父輝宗に頼みに行った二本松義継は何とその場で輝宗を拉致して二本松に向かうも、駆けつけた政宗に輝宗もろとも射殺される。

翌天正14年には城方自ら火を放って開城した。

その時の物と見られる焼けた土や木材が発掘調査でここから大量に出土したそうだ。

城代として入城した伊達成実が焼け跡の後始末をしたという記録とも一致する。

生々しい歴史の遺物だ。



少年隊顕彰碑
またここは砲術道場で学ぶ少年達が稽古にはげんだ場所でもあったそうで、いちばん奥には少年隊顕彰碑が建っている。



搦手門
搦手門跡の石垣を見ながらまた石段をジグザグに上る。

本丸石垣
すると天守台のような石垣が見えて来る。

しかしこれは天守台ではなくて、この上のスペースが本丸なのだ。



枡形虎口
枡形虎口から本丸に入る。

オブジェ
東櫓台の上に巨大な猫のオブジェが建っている。

天守台の上にはオノ・ヨーコの

雷鳴にはむかう空

雷雨の中に空を作りなさい。

とだけ書かれた凡人には理解困難なアート作品もある。

これらの物がここに必要かどうかも理解できない。



自尽の碑
天守台の下には「丹羽和左衛門 安部井又之丞 自尽の碑」が建っている。

説明版によると戊辰戦争で落城した際にここで切腹した両名の供養碑で、当初は天守台に建っていたが、平成7年の本丸石垣修築復元工事の完成に伴って天守台の下に下ろされたとのことだ。

今その天守台上にあるのがオノ・ヨーコの作品だ。



本丸からの眺め
しかしこの本丸からの眺めは素晴らしい。

雨にけぶる二本松市街を見ているとこの城の雅号が「霞ヶ城」であったことを思い出した。



ところでこの本丸の石垣は江戸期に入封した加藤氏の築いた物だが、その内部にはそれ以前の城主・蒲生氏の石垣が眠っていることが調査で判明したそうだ。

貴重な遺構でもあるのでビデオ撮影してから慎重に埋め戻したとのことだ。

その真面目さがありながら何故史実無視の箕輪門など造ってしまったのだろう。

箕輪門、菊人形、アート作品という露骨な客寄せ主義と学究的な真面目さが混在する奇妙な城だった。

二本松の観光課と教育委員会はどんな関係なんだろう?

そんな大きなお世話を考えながら山城を下りた。



遺構残存度3史実無視の箕輪門で減点
歴史的重要度4政宗と戊辰戦争の合わせ技
景観4余計なオブジェで減点
案内充実度4真面目に頑張っている

猪苗代城2017年10月28日

大手口の石垣
車を駐車場に停めると、すぐに大手口多聞櫓台の石垣。

近世城郭にしては古格な味わいの野面積みだ。

枡形
もちろん枡形を形成して石段へと続く。



帯郭法面の石垣
その石段を登りきると帯郭法面の石垣に突き当たる。

震災の影響なのか、かなりの孕みが見られ一部崩落もしている。



猪苗代城は本丸と二の丸を帯郭が取り囲む構造になっている。

北帯郭
その帯郭を反時計回りに進むとすぐに北帯郭に出る。

中世の猪苗代城
外側は土塁に囲まれているのだが、その切れ間から向かいにこんもりした丘が見える。

どうやらそこが中世の猪苗代城(鶴峰城)のようだ。



猪苗代城は戦国時代までの400年間猪苗代氏の城だった。

摺上原の戦いで伊達政宗の側についた猪苗代盛国は、その後伊達氏の岩出山移封に従ってこの地を去る。

そのあたりまでが鶴峰城の時代だったらしい。

以後蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明らを経て、江戸期には会津藩の重要拠点として一国一城令下にあって例外的に会津若松城と共に存在し続けた。

それが今僕が立っている近世の猪苗代城(亀ケ城)だ。



南帯郭
北帯郭から西帯郭を経て南郭に入った。

紅葉が美しい。

空堀
土塁の外には大きめの空堀がある。

南帯郭からの眺望
さらに土塁の上からは田園地帯の向こうに猪苗代湖を見る事ができる。



二の丸
南帯郭から坂を上ると二の丸に出る。

本丸への石段
さらに短い石段を上って本丸へ。

本丸から北を望む
土塁に囲まれた削平地から北に向かって見える山は赤埴山だろうか。

その背後にあるはずの会津磐梯山は雲に隠れて全く見えない。



幕末の戊辰戦争では、猪苗代城から北東13kmほどの母成峠が新政府軍に破られたとの報に接するや城代高橋権太夫は最早この城を支えるのは不可能との判断で自ら火を放って退却。

ここに猪苗代城はその600年の歴史に幕を閉じた。

今日この城に着いてから一通り見て回るのにかかった時間はほぼ1時間。

確かに新政府軍の攻撃を一手に引き受けられるだけの規模はないように思える。



遺構残存度4大手口の石垣等見所豊富
歴史的重要度3戊辰戦争では不戦敗
景観4城内の紅葉と南郭からの眺望
案内充実度3素っ気無い