松本城2017年04月26日

車を松本城より南のパルコの有料駐車場に入れ、北に向かって歩き始める。

女鳥羽川
10分足らずで江戸期から明治にかけて舟運が盛んだった女鳥羽川に突き当たるので、橋を渡らずに河沿いを東に向かう。

大手枡形跡
最初に出会う千歳橋を渡った所が松本城の大手門の跡で、枡形の跡が現在の車道にもはっきりと残っている。



ここからが城内で、往時は武家屋敷が並んでいたが現在ではビルが建ち並んでいる。

大名町通りを真っ直ぐに北へ進む。

大名町通りからの景観
途中交差点を渡る時に左を見ると遠くの雪を冠った山々が見えたりする。



松本城入り口
すぐに城の入り口に突き当たり、国内外からの観光客がぞろぞろとそこから入ってゆく。

しかし上級者はこんな所から入ったりしない。

なぜなら往時ここに入り口など無かったからだ。

太鼓門
湧き水を湛える外堀に沿って右側にぐるりと回って平成に復元された太鼓門から二の丸に入った。



二の丸御殿跡
入って右が二の丸御殿跡。

左に進むと内堀の向こうに天守が見えてくる。

松本城天守
黒を基調とした現存天守の圧倒的な存在感。

彼方には雪の残る北アルプス。

素晴らしい。



天守そっちのけで砂利を集めて遊んでいる娘を引っ張って土橋を渡り、昭和期に復元された黒門から本丸に入る。

黒門枡形
枡形では兜武者が道案内をしたり、記念撮影に応じたりしている。

特に外国人に人気だ。



本丸
だだっ広い本丸を天守に向かって歩く。

松本城の天守は、中央の大天守、向かって右の乾小天守、左の辰巳附櫓と月見櫓が連なる大変珍しいスタイルとなっている。

元々この地には小笠原氏の深志城があった。

それを武田信玄が大規模に改修し、武田氏滅亡後にカムバックした小笠原氏が松本城に改称。

豊臣の世になって入封した石川氏が現在の大天守と乾小天守を築造。

さらに、寛永10年(1633)に入封した松平氏が辰巳附櫓と月見櫓を増築した。

この時大阪の陣からほぼ20年。

月見櫓の紅い回縁は平和な時代の象徴にも思える。



天守内部
天守内部に入ってみる。

埋橋
大天守の窓から朱塗りの埋橋が見える。

元々あった橋の構造がわからないので想像で復元(?)されたらしい。



月見櫓
さらに上の階からは月見櫓が見える。

やはりこの優美さと華やかさは城としては異質である。



最上階からの眺望
さらに、急な階段を這いつくばるようにして最上階まで上ると素晴らしい眺望を堪能できる。

ただし、かなり寒い。

表の気温は15℃ほどあるのだが、天守内部は陽が当らない上に風が良く通る。

板敷きの床の冷たさが時間を追うごとに足の裏にこたえてくる。

早々に下りることにした。



本丸を出て二の丸を西へ向かう。

右手に天守。

二の丸公園から見た天守
どこから見ても絵になる。

絵にならざるを得ない。

本当に素晴らしい城だ。

国宝も当然。



二の丸の西南角から外の通りに出る。

武家屋敷発掘調査現場
するとそこでは発掘調査が行われていた。

三の丸の武家屋敷の遺跡だそうだ。

これは発掘調査が終わると遺構として残されるのだろうか?

それともこの上に何か建物が建つのだろうか?



西総堀土塁公園
この道を南に下ってゆくと右手に西総堀土塁公園がある。

市街地の中にかつての土塁の痕跡が残されている。

しかし植え込みなどが整然とし過ぎているせいか遺構という雰囲気は乏しい。

消滅した遺構の上に造成した宇都宮城の土塁と区別がつかない。

これはもったいない保存のし方かも知れないと考えながらパルコの駐車場へと向かった。



遺構残存度5圧倒的な現存天守の存在感
歴史的重要度3松本城としての実戦経験はなし
景観5北アルプスを借景とする天守
案内充実度4過不足なし

大田原城2017年04月16日

花見とドライブを兼ねて東北自動車道を栃木県大田原市の大田原城に向かう。

車はレンタカーのダイハツMOVE。

同じダイハツの軽自動車TANTOよりも車高が低く、フォルムも流線型に近いのでこちらの方が高速道路は走りやすい印象を持った。



矢板インターで高速を下り、目的地の大田原城とは目と鼻の先まで来たところで通行止め。

今日は地元のお祭りで、通行止めの先を大きな山車が通っている。

係員の指示に従って近くの大田原小学校の運動場に車を停めてお城まで歩いてアプローチする。

大田原城
5分ほどで突き当たる小高い山が大田原城だ。

桜は満開。



三日月堀
城に入るとすぐに明らかな土塁と三日月堀が迎えてくれる。

門の跡らしき土の盛り上がりもある。

少し登ったところに説明版があり、その中の縄張り図をiphoneで撮っておく。

これはその後非常に役に立った。



その縄張り図を見ながら二の丸へ。

二の丸跡
長屋と弾薬庫が建っていたスペースに現在では戦没者の慰霊碑と地元の偉人のモニュメントが並び建っている。



空堀をめがね橋で渡って本丸へ。

本丸跡
娘の通う区立小学校の校庭よりもはるかに広いスペースの外周を土塁が取り囲んでいる。

まずはその土塁の上を歩いて見る。

本丸土塁上からの眺望
平山城の斜面の桜、大田原市街、遠くの雪を冠った山並みまでが見られて中々の眺望だ。



4分の3ほど回ったところで土塁を下りて本丸にレジャーシートを敷いて花見らしきことを始めてみる。

本丸跡の桜
ここは地元では定番のお花見スポットということなのだが、今日はお祭りの方に人が出払ったのか人出は少ない。

売店の類もない。

それを当てにして飲食物を何も持って来なかった僕らはただ座ってひたすら桜をめでる。

娘はずーっとゲームをやっていた。



お花見を切り上げて立ち上がる。

一旦本丸を出て、本丸の東側の土塁の外に設えられた遊歩道を北に向かう。

蛇尾川
右側の藪の隙間から蛇尾川が見える。

これが実質的な外堀だろう。



遊歩道は土塁の上を通り、北曲輪に入る。

北曲輪跡
ここは現在児童遊園のようになっており、うんていとブランコがある。

娘は早速ブランコをこぎ始めた。



iphoneで縄張り図を見ると北曲輪のさらに北に連続してもう一つ北曲輪がある。

これも北曲輪跡か
土塁の外に広がる農地がその跡らしい。

その農地の先を通る道路は堀の跡と思われる。

その道路の上を陸橋で渡って向かい側の大田原神社に行ってみた。

ここも何かの遺構ではないかと思ったが、それらしい物は確認できなかった。



大田原城は天文14年(1545)、大田原資清によって築かれた。

以来明治4年(1871)の廃藩置県までの326年間、一貫して大田原氏の居城であった。

戦国期から明治維新まで城主が変わらなかった城は他にもあるのだろうか?

今ちょっと思いつかない。



遺構残存度4小さな山の堀・土塁・曲輪
歴史的重要度3大田原氏326年の城
景観4本丸土塁上からの眺めと桜
案内充実度3石版に彫った文字が読みにくい

横須賀城2017年02月26日

掛川市南部にある横須賀城は異色の城である。

石垣に丸い天竜川の川原石が使われているのだ。

櫓門跡の石垣
駐車場を出てすぐの本丸南櫓門跡の石垣が普通の城とは全く違う。

違い過ぎてお城という感じが余りしない。

あるはずの枡形もよくわからなかった。



天守台跡
意外に広い本丸には天守台があり、発掘調査に基づいて天守の礎石と縁石が復元されている。



本丸南東の高石垣
本丸南東にも丸石の高石垣が復元されている。

しかし発掘調査の通りであっても、復元に現物の生々しさは望むべくも無い。



三日月堀
三日月堀の脇を通り、さらに東に向かうと東大手門跡が民家と民家の間に挟まれているのに達する。

東大手門跡
内側から見ると枡形の跡が見てとれた。



北の丸に向かう
本丸と、現在は竹やぶとなっている三の丸の間を通って北の丸に向かう。

松尾山
北の丸には松尾山という小山がある。

ここも重要な防御施設だったらしい。

土塁跡
土塁の跡などが残っている。



堀の跡らしき道
城の南を通る細い道は堀の跡と思われる。

さらに1本南の道がかつての街道で、そこが入り江の海岸線でもあったらしい。

今では干拓されて平坦な農地がはるか南まで続いている。



横須賀城は武田勝頼に奪われた高天神城奪回のために徳川家康が大須賀康高に築かせた。

その後城主をくるくると替えながら廃藩置県まで続いた。

どの時点で石垣に川原石が使われたのかはよくわからない。



遺構残存度3丸い石垣と各曲輪
歴史的重要度3高天神城奪還の城
景観3丸い石垣の珍景
案内充実度3説明版充実。縄張り図があれば

掛川城2017年02月25日

掛川城は今川氏の城であった。

今川義元が桶狭間で敗死すると、跡を継いだ氏真が本拠地の駿府を武田信玄に追われてここ掛川城に立てこもる。

その掛川城を攻めて開城させたのが徳川家康。

かつて人質として養われていた今川を攻める家康の心中はどうだったのだろう。



それはともかくその後豊臣秀吉の天下統一に伴って家康が関東へ移封となると掛川には秀吉子飼いの山内一豊がやって来る。

ご存知、後のわが故郷高知・土佐藩の初代藩主。

この時に整備した城と城下町が現在の掛川の基盤となっている。



大手門と天守
区画整理の都合で実際の位置よりも50m北に復元された掛川城の大手門の前に立って見る。

遠くに天守が見える。

掛川城の天守は幕末期の地震で損壊して取り壊されたままだったが、平成6年に市民の寄付金で復元された。

掛川から土佐に移った一豊が築いた高知城の当時の記録に「遠州掛川之通(えんしゅうかけがわのとおり)」とあることから、現存する高知城を参考にして復元したそうだ。

ここで手前味噌を承知で言わせてもらうなら、今同時に見えている大手門と天守の2ショット、高知城ではこれがどちらも復元ではないモノホンで楽しめる。



番所
大手門を入ってすぐの番所は廃城後民家として使われていたのを、大手門の復元に合わせて元の位置関係(つまり実際よりも50m北)になるように移築整備されたものだ。



逆川
水掘りの役目を果たした逆川に沿って天守方面に歩く。

往時には存在しなかった橋を渡って掛川城公園に入る。

四足門
復元された四足門をくぐると

三日月堀
三日月掘と

十露盤堀
十露盤掘があり、

十露盤堀
左には三の丸から移築された太鼓櫓がある。

その先の石垣の切れ間から本丸に入る。

本丸
本丸は現在お花畑になっている。

発掘調査の結果から城になる以前は墓地であったことがわかっている。



本丸
本丸から天守丸へは登閣路という階段で登る。

日本初の木造による本格復元天守に登ってみる。

昭和期のほとんど無意味なコンクリート天守とは明らかに一線を画する事業である。

その後各地で木造復元の機運が盛り上がったことを考えるとその意義は大きいと評価できる。



武者隠し
階段の途中に武者隠しがあり、そういえば高知城にもこんなスペースがあったような気がする。

富士山
望楼からは富士山をおがむことができた。



二の丸御殿
天守の後は二の丸御殿へ。

城郭御殿としては全国に4つしか現存しない、これは掛け値なしに貴重な遺構である。

大書院と次の間
格式のある玄関や大書院、

御用人部屋
陰影のある御用人部屋などで往時のお城の日常とでもいうものをイメージした。

工事用資材
ただ現在補修のための工事中で、三角コーンなどの工事用資材が至るところに並んでいるのが興ざめではあった。

もちろんこれは仕方が無い。



ところでこの城を築いた一豊、武将としてはB級ながら時勢を読む目だけはあったらしく、関が原では徳川方につく。

ついただけではなく、西上する家康にこの掛川城をまるごと明け渡して提供までしている。

秀吉は家康が西に攻め上るのを防ぐためにこの地を一豊に与えたのに全く意味が無かったわけだ。

結局これが功を奏したのか、実際の戦場では特に武功もなかったのにもかかわらず掛川5万石から土佐20万石へと飛躍を遂げる。



遺構残存度4貴重な二の丸御殿と木造復元天守
歴史的重要度3今川氏真籠城と一豊の家康接待
景観4城のある都市景観と天守からの眺望
案内充実度4随所に写真付きの説明板

世田谷城2017年01月04日

初詣に豪徳寺へと行く途中、寺の南に回って世田谷城址公園に向かう。

土塁の跡か
途中私有地に土塁らしき土の盛り上がりが見られた。



そこからさらに進むと住宅地に忽然と小山のような公園が現れる。

ここが城址公園で、ダイヤモンド型と推定される城域の南の角にあたる。



曲輪跡
小山に登るとその上に削平地があって一応ここが曲輪だったであろうことは見てとれる。

堀跡
堀や土塁の跡らしき物も見られる。

しかし公園として整備された分、遺構なのか後世に改変された地形なのか判断がつきにくい。

私有地の遺構
むしろ金網で仕切られた私有地の方が野ざらしな分だけ面白い物がありそうに思えた。



この公園の辺りはいわゆる“詰の城”で、豪徳寺がかつての屋敷跡らしい。

豪徳寺の土塁の跡
そこで豪徳寺に行って見ると確かに土塁の跡らしき物が見られた。



世田谷城は清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城。

15世紀後半には太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として栄える。

その後小田原北条氏と縁戚関係を持つが、天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡に伴い吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となった。



遺構残存度2私有地が見られれば
歴史的重要度2実戦経験はなし
景観2住宅地の憩いの公園
案内充実度2現地案内板の分はわかり易い