中山道<第34日>大井~大湫2017年12月29日

現代の旧中山道を歩く上で最大の難所は大井~大湫~細久手~御嶽の区間だろう。

何しろ大井宿最寄りの恵那駅を出ると御嶽宿最寄りの御嵩駅までの約31kmの間、駅はおろかバス停さえもないのだ(一部コミュニティ・バスが運行しているが平日のみ)。

しかも宿泊施設は細久手に江戸時代からやっている大黒屋という旅館が1軒あるのみだ。



今回その難所に小3の娘を含む家族3人で挑むにあたり次のような計画を立てた。

  1. まず12月28日(仕事納め)の夜11時30分に東京の自宅を車で出発する。

  2. 恵那駅の立体駐車場に車を停め、遅くても12月29日の7:00AMくらいから歩き始める。

  3. この日はスタート地点から20kmの細久手まで歩いて大黒屋(予約済)に宿泊。

  4. 翌30日は細久手から御嶽までの11kmを歩き、御嵩駅から恵那駅に戻りそこから車で帰宅する。

しかし結論からいうとここまで綿密に立てた計画もほんの小さな綻びから破綻することになる。

今回はその報告。



恵那駅
心配された帰省ラッシュに巻き込まれることもなく夜明けの恵那に到着。

ここ数日心配し続けた天気も良さそうだ。

ただ駅前交差点の寒暖計は-6℃。

経験したことのない気温だが、そのつもりで着膨れしてして来たので体感的にはそこまでの寒さは感じない。



中山道大井宿広場
中山道大井宿広場という公園でトイレを済ませ、珍しい霜柱に興味津々の娘を促して歩き始める。

時刻は7:20AM。

まずまずの出だしと言っていいだろう。



日没までに20km先の細久手に到着するためには遅くても2:30PMには14km地点の大湫を通過したいところだ。



中野村庄屋の家
さびれた商店街といった感じの旧中山道を10分ほど歩くと左手に立派な旧家が現れる。

これは中野村庄屋の家だ。

中野村ということは大井宿はもう終わっていたのだろうか。

さて説明板によると文久元年(1861)の和宮降嫁の際に岩村藩の代官から強制的に費用負担をさせられた近隣の村の百姓が、この庄屋に滞在中だった代官を襲撃するという凄い事件があったそうだ。

しかも村では岩村藩相手に裁判を起こして、代官の罷免と金25両の下付を勝ち取っている。

幕藩体制の終焉が近いことを暗示するような事件だ。



西行硯水公園
そこから約20分ほど県道を行くと左手に西行硯水公園という小さな公園がある。

平安末期から鎌倉時代にかけての高名な歌人である西行法師がこの地に3年間暮らし、ここの泉の水で墨をすったという伝説にちなんだ公園だ。



北アルプス
そこから歩きながら後方を振り返るとまだ夜の開けきらない町並みの彼方の北アルプスに積もった雪が朝日を浴びて輝いていた。



旧道
8:00AM、右手に「西行塚」と書かれた大きな石碑があり、そこから旧道は右に分岐する。

十三峠の始まり
踏み切りを渡り、中央道のガードをくぐると道は左に折れてすぐに石畳の坂道となる。

いよいよ古来難所として有名な十三峠の始まりだ。

石畳の起点には手書きの立て札があり、こう書かれている。


中山道はここより御嵩宿まで約30km幹線道鉄道を外れ山間を行きます.途中食堂や商店宿泊所などありません.十分な準備、下調べで前へお進み下さい.
確かにほぼその通り(宿泊所は細久手に1軒ある)だが、僕らはそのための準備はしてきたつもりだ。

とはいえ緊張を新たにして石畳を進んだ。



西行塚
そこから10分足らずで駐車場とトイレだけがある西行苑というスペースがあり、石段を上って西行が葬られたという伝説が残る西行塚に出る。

西行については全くの不勉強で伝説の真偽を判断する材料は何も持っていない。

西行塚の展望台からの眺め
ただ隣接の展望台からの眺めはなかなかだった。



槙ヶ根一里塚
街道に戻って10分で槙ヶ根一里塚にたどり着く。

両塚とも霜で白茶けながら現存している。

ここには東屋とトイレもあるが、トイレは冬季の凍結防止のため使用できなかった。



旧道
そこからもうねうねと続く白い街道を歩いてゆく。



槙ヶ根立場跡
一里塚から20分で槙ヶ根立場跡に着いた。

江戸末期には9軒の茶屋が軒を並べていたそうだが、今はその跡らしきスペースが残るのみだ。



槙ヶ根追分
またここは名古屋方面に向かう下街道が分岐する槙ヶ根追分の地でもある。

中山道から南へ坂を下って行く道が下街道だ。

幕府は中山道の宿場保護のため通行を禁じ、尾張藩も厳しく取り締まったらしいが徹底できず、お伊勢詣りの旅人で賑わったそうだ。



首なし地蔵
そこから10数分で現れるのが首なし地蔵だ。

昔、二人の中間がここで休憩中に眠ってしまった。

一人が目覚めるともう一人が首を切られて死んでいた。

怒った中間は「黙って見ているとは何事か」とそこにあったお地蔵様の首を刀で刎ねてしまった。

それ以来誰が首を元に戻そうとしても戻らないのだそうだ。



乱れ坂
その先大名行列も乱れたという乱れ坂を下り、

乱れ橋
飛脚達が費用を出し合って架けたという乱れ橋を渡り、

四ツ谷集落
四ツ谷集落に入る。

人家を見ると何となくホッとする。

集落内の集会所のトイレが旅人のために解放されていたのでありがたく使わせていただいた。

こういうのは本当に助かる。



この時点で9:40AM。



恵那山
集落を出て左手の恵那山を眺めながら気分良く歩く。



杉林の中の旧道
道は集落から山の辺、杉林の中へと進むに従ってアスファルト、土、石畳と変わってゆく。

坂道のたびに坂の名を記した棒柱が立っている。

細かい上り坂と下り坂が十三連なって十三峠というそうだが、いくつもあり過ぎて今がいくつ目の坂なのかもうわからない。



のどかな旧道
道はのどかな田園地帯を行くのだが、娘のペースが落ち始めた。

紅坂一里塚
10:08AMにたどり着いた紅坂一理塚(ここも両塚残っている)で休憩がてら今日初めてゲームをさせた。



ぼたん岩
歩き始めるとすぐに牡丹状の模様が露出しているぼたん岩がある。

これは花崗岩のたまねぎ状剥離(オニオンクラック)の標本として学術的にも貴重な物だそうだ。



旧道
さらにアップダウンは続く。

印象としては上りよりも下りの方が長くなってきたような気がする。



佐倉宗五郎大明神
10:35AM、左手に佐倉宗五郎大明神が現れる。

現在の千葉県佐倉市で、佐倉藩の圧政を将軍に直訴して処刑された江戸初期の義民として有名な人だ。

その神社がなぜここにと思うが、どうやら宗五郎と同じように岩村藩の圧政を直訴して処刑された庄屋がいたらしい。

その庄屋を祀るのに本名ではお上ににらまれかねないので佐倉宗五郎の名前を使ったのではないかということだ。



右にそれる旧道
街道は一瞬県道に合流し、右側に復元された高札場と深萱立場跡をみてまた右にそれる。

すぐに東屋とトイレの休憩スペースがあるので休憩する。

ここで娘は寝てしまった。

確かに昨夜からの徹夜ドライブで余り寝ていなかったのかも知れない。



旧道
ところが歩きを再開してからも娘のペースが上がらない。

それどころか街道が山道に入ると「タクシー呼んで」と言い出す始末。

もちろんこんなところで車を呼べるはずもない。

女房が楽しくなるような話をして何とか歩かせる。



旧道の残雪
道には数日前の雪の残りが目立ち始める。

水溜りが凍っているのを見つけた娘はつま先でつついて遊んでいる。

これだけ疲れていても目の前の興味にはすぐ食いつく。

靴を濡らしたらこの先大変だなどということには少しも考えが及ばないらしい。



しかし娘の調子が悪いことは間違いなさそうだ。

茶屋坂を下りたところに中山道の石碑と略地図があったのでそれを指して

「今ここ。この大湫に着いたらタクシーを呼ぶ」

と伝える。

大湫まであと約4km。

何とかなるかと思ったが、娘は頭痛を訴えてつらそうだ。

野辺の道
野辺の道、

落ち葉の道
落ち葉の道、

杉林の道
杉林の道といい雰囲気の道を泣きベソをかきながら歩く。

途中で負ぶって歩くのを試みたが、

「お父さんが壊れる」

と女房に止められた。

確かに最早娘は負ぶって坂を上れるような体格ではない。



権現山一里塚
12:37PM、権現山一里塚に到着。

今日3つ目の一里塚だ。

ここも雪をかぶりながら両塚残っている。



車道と並行する旧道
旧道はゴルフ場の敷地を突っ切ると車道と交差し、その車道と並行しながら徐々に上ってゆく。

大した勾配でもないが、これでも娘にはきついらしい。

「もう峠いやだ、いやだ」

と繰り返す。



大湫
しかしその坂を上りきってしばらく下ると眼下に宿場の町並みが見えてきた。

娘よあれが大湫宿しゅくだ!

そして僕らは十三峠を歩き切った。

時に1:33PM。



大湫宿
大湫を歩きながら休憩できる場所を探す。

昔のままの道筋に雰囲気のある家屋や塀が連なる町並みだ。

元旅籠屋の無料休憩所おもだかやで休ませてもらう。

十三峠を越えてやって来た小3の娘に管理人の奥さんは驚いていた。

親として鼻が高い瞬間だ。

娘はすぐに寝込むかと思ったらゲームをやっている。



さてこの先どうするかを女房と話し合う。

事前情報では大湫でタクシーを呼んで細久手まで行くと料金は約3,000円。

しかしそうすると明日はまた細久手から大湫までタクシーで戻って、御嶽までの17kmを歩くことになる。

それを考えると何とかあと6km頑張って細久手まで歩いてしまいたい。

娘もゲームをする元気があるんなら行けるんじゃないか?

そこで娘に事情を話してみると

「じゃあ頑張る」

と言ってくれた。

それで昼食込みで1時間ほど休んだ後、靴を履いておもだかやを出ると娘が

「やっぱり無理かも」

と言い出した。

足が痛いらしい。

そこへおもだかやの管理人の奥さんが追いかけて来て

「細久手まで主人の車で送りましょうか?」

と申し出てくれた。

ここで歩きを諦めるべきかちょっと迷ったが、お言葉に甘えることにした。



旦那さんの車で大湫を出発したのが2:30PM。

皮肉にも僕の計画通りだ。



大黒屋
門松飾りも立派な細久手の大黒屋に着くとまず3人とも爆睡。

その後娘は発熱して夕飯も翌日の朝食もほとんど食べられなかった。

これはもう歩きは無理なので大黒屋さんにタクシーを呼んでもらい、絶好のウォーキンング日和の下を恵那まで約8,000円かけて引き返し、恵那からマイカーに乗り換えて東京に帰った。



墨田区の休日診療に連れて行くとインフルエンザだった。

熱は40度。

潜伏期間を考えると出発前日か前々日あたりにもらった可能性が高い。

その状態で歩かせたことは可愛そうなことをしてしまった。

でもよく頑張ってくれた。

本人が

「次中山道いつ行けるの?」

と言ってくれてるのが救いだ。

中山道<第33日>中津川~大井2015年07月11日

昨夜の11:20PMに代々木を出発した高速バスが、今朝4:50AMに中津川駅のひとつ手前の淀川バス停に到着した。
新宿から乗って来たバス
これから5年振りの中山道を歩く。

バス停近くの防災公園で昨日のうちに買っておいたパンを食べてから前回のゴール地点、四ツ目川橋まで歩く。
四ツ目川橋
朝もやが薄れて青空がのぞき始めた。

人通りはほとんどない。

6:00AM、四ツ目川橋を渡りいよいよ5年振りの中山道を歩き始める。

5年前はベビーキャリーで背負っていた娘も今では小学1年生、今日は中津川宿から大井宿までの約10kmの行程を歩かせる予定。



四ツ目川橋を渡った中津川宿は往時のままの道幅に旧い家屋が点在する。
中津川宿
幕末関係の資料が展示されているという中津川市中山道歴史資料館は時間が早過ぎて残念ながらパス。

その1軒先の見事な卯建の上がる建物が中津川村の庄屋宅、
中津川村旧庄屋宅

その向かいの駐車場が本陣跡。
中津川宿本陣跡
建物は跡形もないが敷地の広さだけは実感できる。



突き当りを左に折れるとさらに旧家屋が建ち並ぶ一画に出る。
中津川宿
濃茶の木材と白漆喰のコントラストが美しい。

宿場としてはさほど期待していなかった中津川だったが、予想に反して見所豊富な宿場だった。



宿場を出ると低層の木造民家が軒を連ねる住宅地。

その民家がだんだんまばらになってこでの木坂という坂を上るとすぐに上宿一里塚
上宿一里塚
今日最初の一里塚だ。



旧中山道が国道19号線と国道257号線に合流する直前の三角地帯に小石塚立場跡があり、現在ではデイリーヤマザキになっているので、そこで飲み物や食料を買い込みながら休憩。
小石塚立場跡
トイレも借りて再出発したのが7:40AM。

早くも暑くなってきた。

そういえば今日の岐阜市の予想最高気温は30℃を超えていた。



一瞬国道と合流した旧中山道はすぐに右にそれる。
笠置山
緩やかなアップダウンと蛇行を繰り返しながら正面の笠置山に向かって進んでゆく。



千旦林村の高札場跡を過ぎて10分ほどで旧中山道はさらに左の細い道に分岐して、ほとんど田んぼの中の畦道となる。
旧中山道
緑の田園の中を右前方に笠置山を見ながら歩く。

実にのどかなひとときだが、気温はどんどん上がっている。

娘はかなり疲れている。



8:47AM、三ツ家の一里塚跡を通過。
三ツ家一里塚跡


細かく休みながら進み、茄子川村の高札場跡を過ぎてすぐの尾州白木改番所跡の向かいの空き地で娘にさっき買ったおにぎりを食べさせる。
尾州白木改番所跡


皇女和宮や明治天皇も休憩したという茄子川小休所篠原家の見事な建物の前を通り過ぎ、
茄子川小休所篠原家
小高い丘を二つ越えると中津川市と恵那市の境界があり、そこに中山道と書いた大きな碑が建っている。

10:00AM、やっと恵那市に入った。



この頃から娘は「(ゴールは)まだ?まだ?」と繰り返すようになった。

どこかで思い切って休まねばと思いながら歩いていると、甚平坂を上りきったところにおあつらえ向きなあずまやがあったので休憩する。
甚平坂からの眺め
すると前夜バスに乗る前に飲んだ酔い止めが効いてきて僕も女房もそこで居眠りをしてしまった。

10分ほどだっただろうか?



再出発して笠置山を右に見ながら歩いていると、関戸一里塚跡を通過した。
関戸一里塚跡
今日3つ目の一里塚だ。

一日に3つの一里塚を通過するのは本当に久しぶりな気がする。

11:07AM、ゴールは近い。



そのすぐ先の下り坂の向こうに恵那の市街地が見えてきた。
恵那の市街地が見えてきた
下り坂はやがて民家の間の路地となって大井宿の高札場に達する。
大井の高札場跡
11:20AM、大井宿に入った。



街道は大井宿に入るとすぐに左に屈曲する。
左に屈曲
大井宿に特徴的な大きな枡形の始まりだ。



豪壮な塀と門が残る本陣の前で右に曲がり、
大井宿本陣跡
旧庄屋の中山道ひし屋資料館(本当は寄りたかったが、娘の状態を見て断念)の前を通り、
中山道ひし屋資料館
旧家屋を活かしたいち川という旅館の角でまた右に曲がる。

ここにも旧庄屋の家屋が残っていて、その前を通り市神神社の突き当りを左に折れる。

さらに阿木川と平行する格好で左折して、大井橋で右に曲がる。

城下町並みに道が屈曲しているのは、幕府がここに城を築くつもりだったためらしい。



大井宿
旧い日本家屋がきれいに黒塗りされて良く残っている宿場だった。



大井橋を渡ると変哲のない駅前通という感じ。
大井宿
11:44AM、旧中山道が恵那駅から延びる道と交差するところで今日の中山道の旅を終了した。



その後駅前の喫茶店で昼を食べて、明智鉄道で岩村に向かう。

勿論岩村城を見るためだが、岩村で降りてちょっと歩いただけで娘はグロッキー状態だったので断念して翌日にまわすことにした。
岩村の城下町
それでもここまで良く頑張った。

中山道<第32日>馬籠~落合~中津川2010年09月20日

新茶屋
大黒屋 10:00AM前に馬籠茶屋を出て馬籠宿を散策。
馬籠脇本陣史料館を見学し、喫茶店併設の土産物屋・大黒屋へ寄ってみる。
『夜明け前』では“伏見屋”として登場する重要な家。
ここはかつて酒造業で財を成した家で、小説にも描写のある杉玉が今でもぶら下がっていた。

藤村記念館 その後女房子供と別行動をとって一人藤村記念館へ。
ここは島崎藤村の生家(つまり馬籠宿本陣)跡でもある。
本陣はあらかた焼失しており、記念館の建物は敷地の脇のほうに控えめに配置されている。
従って母屋のあったあたりは何もない空間となっているのだが、思いの外狭く感じた。
建物の建ってない土地は狭く感じるものなのだろう。

永昌寺 裏庭からは昨日訪れた永昌寺が見える。
青山半蔵はここから火を放ちに向かった訳だ。

展示品の中では7歳で亡くなった藤村の娘の写真が眼に焼き付いている。
亡くなる直前の撮影らしいが、ベッドに横たわって賢そうな顔だけをこちらに向けた少女。
その表情は既に全てを諦めたかのように虚ろである。
父・藤村はどんな気持ちでこの写真を撮ったのだろう。
一人の父親として胸が痛む。

記念館を出て女房子供の待つ土産物屋へと向かう。
母親と片手をつないだ1歳7ヶ月の娘が、僕を見つけて飛び跳ねて喜んでいる。

馬籠宿 馬籠宿は木曽の山から美濃の平野に下りて行く斜面に位置する。
宿場全体が坂になっているので、家並みの間を下ってゆく街道の彼方に山々がそびえるという、他の宿場ではなかなか拝めないような景観が楽しめる。
たび重なる大火で旧い建物はほとんど残っていないのだが、宿内の家屋の外観は日本風に統一されていて往時を充分に偲ぶことができる。
思わず寄ってみたくなるいい感じの喫茶店もたくさんある。

馬籠宿を出た中山道 11:30AM、宿場の出口あたりのスーパーで昼食のお握りを買い、娘をmacpacポッサムに背負って今日の旅をスタートする。

いきなり田園風景が広がる。
左手彼方には恵那山。
宿場に溢れていた観光客も消え失せてロケーションが一変した旧道を気分良く歩く。

子規の句碑からの眺め 20分程歩くと、それまでちらちらとのぞいていた美濃方面の視界が一気に開ける。
素晴らしい眺めだ。
ここには正岡子規の句碑があり、すぐ脇にはあずまやが建ち、ご丁寧にごみ箱まである。
昼食には絶好のポイントだ。
ところが娘はポッサムで熟睡している。
仕方なく休憩だけして再出発した。

新茶屋と一里塚 緩やかなアップダウンを繰り返してかつて立場茶屋があった新茶屋に達する。
現在では旧い家屋の民宿が一軒あって、そこの子供がおばあちゃんの畑仕事を手伝っている。
妻籠を出てからここまで、宿場の外にもこういった民宿が何軒もあった。
ネット上の情報には存在しなかった宿だ。
どんな人が泊まるのだろう。

ここには一里塚があり、『夜明け前』に製作の場面があった芭蕉の句碑があり、その作者藤村の揮毫による「是より北 木曽路」の碑もある。
つまりここで木曽路ともお別れだ。

十曲峠の石畳 美濃に入るとすぐに石畳の下り坂となる。
新茶屋のあたりが十曲峠の最高地点だったらしい。
峠といってもここまでほとんど上りの意識がなかったのだが、下りは結構急なので京都側から来る人にはかなりきつい峠だろう。

落合宿本陣跡 鬱蒼とした樹木に覆われて昼なお薄暗い石畳をジグザグに下り、舗装道路と合流して落合川を渡ると落合宿に入る。
静かな田舎の住宅街だ。
現在公開中の映画『十三人の刺客』で話題になっているクライマックスのど派手な乱闘シーンの舞台はここ落合らしいが、そのギャップが笑いを誘うほどの静けさだ。
本陣跡のちょっと先の公園で昼食。

与坂立場跡からの眺め 旧中山道は国道19号線と2度交差して、坂を登る。
この坂はまるで等高線を垂直に突っ切るような急勾配だ。
なぜこのような道の付け方をしたのだろう。
息を切らせて登りきると稲穂と防風林が風に揺れる高原のような場所だ。
ここは立場跡でもある。

そこからは延々と坂を下りに下って中津川宿に至る。

中津川宿 往時には東美濃の実質的な玄関口として栄えた中津川も今では見るも無残な商店街だ。
商店街とはいっても実際に営業している店舗はぽつりぽつりという感じで、3連休の最終日だというのに人通りがまるでない。
ガランとした通りに響くBGMがうらぶれ感を一層あおる。
NHKよ、これが「歩くことで見えてくる“にっぽん”」だ。

『夜明け前』では馬籠の主人公が、人や情報が集まる中津川の友人達を羨むことになっているが、現在では完全に逆転している。
鉄道や道路という交通網の整備された地方都市がさびれ、その交通網から外れた山村が観光地として栄えている。
“開発”とは一体何だったのか。
妻籠・馬籠の活況と中津川の惨状の残酷なまでのコントラストはそのことを我々に考えさせずにはおかない。

中山道茶屋_縹 四ツ目川橋を渡ったところで今回の旅を終了とし、この商店街では例外的に新しい店舗の“中山道茶屋 縹”でコーヒーを飲み、これまた例外的にお客の入っている栗きんとんの老舗“すや”でお土産を買って中津川駅へ。
5:01PMの快速で名古屋まで行き、名古屋で6:30PMの新幹線のぞみ44号に乗り換えて東京へ。

中山道<第31日>妻籠~馬籠2010年09月19日

馬籠峠越えの石畳
妻籠宿僕らの中山道の旅はついに東海道新幹線を使って名古屋回りでのアクセスとなった。
6:16AM東京発ののぞみに乗り込み、名古屋で8:17AMのナイスホリデー木曽路という休日のみ運行の快速に乗り換えれば南木曽に9:51AMに到着。
そこで10:10AMのバスに乗れば何と10:17AMに妻籠に到着だ。
5月にスーパーあずさと普通列車を乗り継いで、塩尻回りで木曽路に通っていた時は昼頃にスタート地点に着いてたことを思うと、やはり新幹線という乗り物の凄さを実感する。

妻籠宿脇本陣さて3連休の中日ということもあって今日も妻籠は観光客でごった返している。
そんな中、平成7年再建の本陣(島崎藤村の母親の実家でもある)と、明治13年築の脇本陣を見学。
どちらも囲炉裏に火を炊いて建物を内部から燻しているのが印象的だった。
その煤を硬く絞った雑巾で拭き取ることを永年続けることで黒光りする艶が生まれるのだ。
脇本陣のガイドから聞いて知った。

妻籠宿本陣隣の公衆トイレで娘のオムツを替えた後、宿場内の商店でパンを買い、無料休憩所で昼食。
そして3ヶ月振りに娘をベビーキャリー、macpacポッサムに乗せて背負う。
この3ヶ月で体重は10kgを越えただけあって肩にズシリとのしかかる。
今日はこれで馬籠峠を越えるのだ。
まずは妻籠宿観光案内所で「完歩証明書」という物をもらう。
妻籠宿のスタンプが押してあるこの証明書を次の馬籠宿の観光案内所に持って行って、そこで馬籠宿のスタンプを押せば妻籠・馬籠間を完歩した証明になるらしい。
この証明書は紙のように薄くすいた木(多分檜)でできている。

大妻籠12:55PM、地域住民不断の努力の結晶である美しい宿場を出る。
道は細かなアップダウンを繰り返し、大妻籠に至る。
見事な卯建の上がる民宿などが建ち並ぶ風情ある小集落だ。
この辺りでは馬籠方面から歩いて来た人達とひっきりなしにすれ違う。
西洋人も多い。

馬籠峠への道大妻籠を出て県道を横切ると本格的な峠越えの道が始まる。
ハイカーのために整備された石畳の道がジグザグに坂を登ってゆく。
途中田園の脇を通る僕好みの土道もある。
勾配は大したことないのだが、成長した娘の重みがかなりこたえる。
特に膝と同じくらいの高さの段差を登る時、膝の上の部分に大きな負担がかかり、何度も繰り返すうちにそこの筋肉が今にも痙攣しそうな感じになって来た。

一石栃立場茶屋跡かつて7軒ほどの茶屋が軒を並べていた一石栃立場茶屋跡を通りかかった時、そこに1軒だけ残る休憩所のおじさんが「休んでいかねェか」と声をかけてくれたので、お言葉に甘え、お茶と飴をご馳走になった。
おじさんによれば峠まであと15分。

馬籠峠名所の男滝女滝までちょっとの回り道をする余裕もなく、こまめに休んで膝の上の筋肉を伸ばしながら石畳を登り、再び県道と交差したところが馬籠峠だ。
峠の茶屋のベンチで一休み。
ここは長野と岐阜の県境でもある。
2007年7月7日に小雨の碓氷峠を越えて以来ずっと歩いて来た長野県ともこれでお別れだ。
長野に入った時は2人だったのに、出る時は3人になっている。
人生の不思議。

長野県は終わっても木曽路は今しばらく続く。

峠集落 岐阜県に入るとすぐに県道をそれて旧道の下り坂に入る。
こちらは石畳ではなく桜が散ったような図柄で舗装してある。
ほどなくかつて間の宿であった峠集落に着く。
急坂に沿って旧い民家が軒を連ねる。
ここはかつて貨物を運搬する“牛方”が多く住んでいたのだが、安政3年に中津川の問屋との間で運賃配分に関する争いがあったことは藤村の『夜明け前』でも、変革の息吹の象徴として詳しく描かれている。

この頃から前方の視界が開け始め、時折美濃方面の平野も見えてくる。

陣場 馬籠まであとわずかというところで、もうないだろうと思っていた登り坂に差し掛かる。
限界に近い足を引きずりながら登りきると一気に視界が開け、そのまま宿場の入口に当たる陣場に着く。
昔徳川方の武将が陣を布いたことからその名が付いたそうだが、今ではちょっとした展望台になっており、恵那山、美濃平野が一望できる。
これまでの木曽路ではまずおがめなかった眺めである。

馬籠宿4:30PM、馬籠宿に入る。
ここも妻籠に負けず劣らず観光客で溢れている。
とりあえず観光案内所で完歩証明のスタンプを押してもらい、今夜の宿、馬籠茶屋にチェックインする。
夕食までの時間を利用して宿場の裏山にある永昌寺へ。
ここは『夜明け前』に万福寺の名で登場する。
物語の最終盤で精神に異常を来たした主人公青山半蔵が火をかけようとするのがこの寺だ。
しかし境内にそのことに関する説明の類は一切ない。
ただ半蔵のモデル島崎正樹(藤村の父)と藤村の墓への案内があるのみであった。

夕暮れの馬籠宿を散歩して馬籠茶屋へ。

中山道<第30日>(十二兼駅)~三留野~妻籠2010年05月29日

妻籠宿
さらしなや裏の木曽川 6:00AM、木曽福島の「旅館さらしなや」で目覚める。
窓の外を木曽川が流れる。
昭和2年築のこの旅館、かつては木曽川べりに月見露天風呂があったのだが、近年の大雨で建物ごと流されてしまったそうだ。
木曽川は現代でも暴れ川であることをやめた訳ではないらしい。

このトンネルをくぐる 木曽福島駅9:04AMの各駅停車に乗って今日のスタート地点十二兼駅へ。
10:00AM、まずは駅前の線路沿いの道を今日進む方向とは反対方向へ歩き始める。
これはきのう、あるはずの踏切がなかったためアクセスできなかった旧道を歩くためだ。
旧道らしくくねった道を歩いてきのう渡れなかったポイントあたりにさしかかろうとした時、道の脇で畑仕事をしていたおじさんが、
「中山道?だったらそこのトンネルをくぐれば向こう側に行けるよ」
と教えてくれた。
するとそこに用水路のためのトンネルがあり、仮設の歩道が付けられている。
そのトンネルをくぐると何ときのう旧道が国道と交差した地点に出て来れた。
きのうは全く気付かなかった。
地図上では踏切にしか見えなかったが、実はこのトンネルをくぐれということだったらしい。

羅天の桟道のあたり 今来た道を引き返して十二兼駅前まで戻り、改めて三留野方面へ歩きだす。
道の右脇はエメラルドグリーンの水面妖しい木曽川だ。
“寝覚の床”を思い出すような方形の奇岩がゴロゴロしている。
やがて国道19号線と合流する。
かつてこの辺りは木曽川の断崖絶壁にへばりつくように歩いた“羅天の桟道”という木曽屈指の難所だったそうだが、現在では国道に設けられた歩道を難なく歩ける。
この歩道は地上よりも川側に張り出しているので、江戸時代であれば空中を歩いているということになる訳だ。
そしてその分木曽川を存分に眺めながら歩くことができる。
かつて上州の松井田宿へ向かう国道を、左前方の妙義山を眺めながら気分良く歩いたことを思い出した。

途中「与川入口」という交差点で左にそれる道が中山道の脇道にあたる与川道で、月の名所で知られる与川集落を通って三留野に至る。
木曽川沿いの難所を避けるために設けられた道らしい。

与川道 その交差点から500m程先で旧中山道は国道19号線から左に分岐して坂を登る。
木曽川ともしばしのお別れだ。
名残を惜しみつつ三留野宿に入る。
すぐに左後方からの急坂を下ってさっきの与川道が合流して来る。
南木曽町ではこの道を中山道整備事業の対象にしたそうだ。
山村の風情あふれるいい道らしいが、残念ながら再びここまでやって来てらそちらを歩く機会は訪れないだろう。

三留野宿 三留野は山の斜面にへばりつくように佇む宿場だ。
坂を登ったかと思うと、眼下の甍の浪の中へ石段で降りてゆく。
民家と民家の間の路地をいくつも通りぬけたところで道を間違って少々時間をロスしながらも宿場のはずれ、南木曽駅から直線距離にして約400m手前で時計を見ると12:10PM。
今日は南木曽駅を2:52PM発の普通列車に乗る予定だったのだが、これなら1本くらい早い列車に乗れるかも知れないと思って時刻表を見ると、10分後の12:20PMに普通列車が出る。
これに乗りたい!って言うか、乗れなかったら南木曽で2時間30分も列車待ちだ。
三留野宿 慌てて駅方面に歩くのだが、駅の入口は中山道の反対側にあり、陸橋を渡って改札を強引に突破した時既に列車はホームに。
そのホームへはさらに陸橋を渡らねばならない。
後続の女房から
「もう、やめよう」
の声が。
駅員さんも
「子供いるんだし無理しない方がいいよ」
こうして僕らは南木曽駅に取り残された。

南木曽駅 無人の待合室でおにぎりを食べながら今日これからの予定を組み直した。
次の妻籠宿までは6km弱。
これからその妻籠まで歩き、バスで南木曽駅に戻って4:00PMのワイドビューしなのに乗る。
これで行こう。
早速帰りの切符を買い、バスの切符売り場で妻籠のバス乗り場の位置を教えてもらう。

上久保の一里塚手前の中山道 1:30PM、妻籠に向かって歩き始める。
旧中山道はいきなり急な坂を登って山の中に入り、風情たっぷりの小集落をいくつも抜けて上久保の一里塚へ。
左右共に残っているのは塩尻を出てすぐの平出一里塚以来ではないだろうか。

その先の旧道もアップダウンを繰り返し、やがて妻籠城跡への道が右に分岐する。
城跡までの距離は300m。
妻籠城址から妻籠宿を望む ちょっと迷ったが寄り道することにした。
山城らしく急な細い上りが続き、途中道の両側の地面を削り落とした堀切を過ぎると二の丸らしい平らなスペースがあり、さらに登ると一気に視界が開けて本丸跡に辿り着いた。
そこにあった説明板によると、ここでは小牧・長久手の戦いの際、豊臣方の木曽義昌の家臣、山村甚兵衛良勝が徳川軍を退けたそうだ。
関が原の戦いの時も軍勢が入ったそうだが、そんなことよりもここからの眺めは素晴らしい。
妻籠宿が一望できる。
バス乗り場も見当がついた。
寄り道して良かった。

妻籠宿 2:45PM、妻籠宿に入る。
奈良井よりも細く、くねった道の両側に昔ながらの日本家屋が建ち並んでいる。
道の細さは奈良井にはなかったミクロコスモス(小宇宙)的な魅力をかもし出している。
そして、土曜日ということもあり観光客であふれている。
これまで静かな宿場ばかりを旅してきた僕らの気分も何となく浮き立って来る。

鈴屋の窓越しに見る妻籠宿 散策は次回ということにして、「御休処 鈴屋」でコーヒーを飲む。
中山道の宿場でコーヒーを飲むのは下諏訪以来だ。
これで後先かまわずの3週連チャン、怒涛の“5月シリーズ”は終わった。
2年間の空白を埋めるかのように歩きに歩いた、娘を背負って。
次に来れるのは秋だろうか。
鈴屋の窓越しに人波絶えない妻籠宿の街並みを眼に焼き付けて、バス乗り場に向かった。