龍馬脱藩・ゆかりの道 吾桑~新庄2013年12月31日

須崎砲台跡
桑田山温泉 9:45AM、予想外にいい温泉宿だった桑田山温泉「和」YAWARAGIを出発する。
宿自体は民宿同等ながら、ぬるっとした湯質と小川を橋で渡って入る野趣あふれる露天風呂、そして甲斐甲斐しく立ち働く女将さんの人柄は1泊2食付7,000円を格安に感じさせてくれる。

さて龍馬が歩いた可能性のほとんどない道を須崎市街地に向かって歩き始める。
須崎は僕が通った須崎高校があるのでこの辺りも当然通ったことがあるのだが、30年の年月が僕の記憶を薄れさせ、そしてそれ以上に街道沿いに建ち並んだロードサイド型のチェーン店が景観を一変させていて記憶上の風景とほとんど一致しなかった。
人はこんな時に「故郷を失った」と感じるのかも知れない。

須崎砲台跡 道がトンネルに入るのを避けて左に迂回し、須崎の海岸沿いにある西浜公園へ。
そこは幕末に土佐藩が設けた砲台の跡だ。
須崎生まれの僕の親父によると地元では「台場」と呼ばれているそうだ。
海に向かって石垣が扇形に積まれている。
その上に7門の大砲が据えられていた。
親父は子供の頃この石垣の間のこおろぎを取りに来ていたそうだ。

ここ須崎の港には龍馬も入港しており、ここから寺田屋のお登勢に送った手紙が残っている。
だから須崎は脱藩の道ではなくともゆかりの道だと言えなくはないわけだ。

須崎高校 道の駅かわうその里すさきで昼食をとり、母校・須崎高校の前に立つ。
しかし僕が学んだ木造校舎は卒業と同時に取り壊され、元々校庭だった場所に建つ鉄筋校舎を見ても感慨は沸きにくい。
あの木造校舎は県内最後の木造の高校校舎だったらしい。

ちなみに僕が佐川小学校1~2年の時の木造校舎も3年に上がると同時に取り壊された。
これも県内最後の木造小学校だったそうだ。
佐川小学校の同級生で、須崎高校へ進んだ者は僕のほかにいなかったので、ということは僕は高知県内最後の木造小学校と木造高校で学んだ唯一の人間ということになる。

新庄川 ここから先は須崎高校陸上部時代のランニングコースだった新庄川沿いの国道197号線を葉山方面に向かって歩く。
日本で最後にかわうそが目撃された清流だ。
目撃者は当時小学生だった陸上部の先輩。
テレビのニュースでかわうその印象を聴かれ、たどたどしく「猫みたい」と答えたことが仲間内の笑い話だった。

3:00PM、迎えに来た親父の車に拾ってもらって家路についた。

龍馬脱藩・ゆかりの道 佐川~吾桑2013年12月30日

斗賀野峠の旧道
「龍馬脱藩・ゆかりの道」今回は我が生まれ故郷・佐川をスタートし、猿丸峠を越え、さらに斗賀野峠を越えて須崎市内に向かう途中にある桑田山温泉まで歩く予定。

しかし実際に龍馬の脱藩ルートに須崎市が入っていた可能性は極めて薄い。
斗賀野峠を越えてすぐに須崎方面への道から逸れて朽木峠を越えて葉山に向かうルートが現実的だろう。
僕らもできればそちらのルートをとりたかったのだが、葉山の宿がとれなかったのと、僕自身が高校時代を過ごした須崎を歩いてみたかったこともあって今回は敢えて須崎ルートを歩くことにした次第だ。

牧野富太郎ふるさと館 佐川町内の実家を出発し、そのまま近くの乗台寺を軽く見学した後上町地区へ。
まずは世界的に高名な植物学者・牧野富太郎(1862~1957)の生家が「牧野富太郎ふるさと館」という名で復元されていたが、既に年末年始の休みに入っていて中に入ることはできなかった。
ちなみに富太郎は僕の遠い親戚に当たるらしいが僕自身は植物に全く疎く、ありふれた花の名を女房に教えてもらっている有様だ。

旧青山文庫 さらに歩くと県内屈指の蔵元である司牡丹酒造の酒蔵が並ぶ街並みとなる。
そこに唐突に白亜の洋館が現れる。
これは佐川出身の幕末維新の志士・田中光顕が当時の貴重な史料等を集めて開いた「青山文庫」を移築した建物だ。
玄関が開いていたので中に入ると管理のおばさんが「今日はここで婚礼があるので公開はしていません」とのことだった。

旧浜口家住宅 その隣は「旧浜口家住宅」が観光協会として公開されているということだが、ここも婚礼に使われるということで新郎の友人と思しき若者達が準備に大わらわでとても見学どころではなかった。

上町の街並み 上町地区は現在酒蔵を中心とした旧い街並みが残る通りとして整備されているようだ。
ここは明治期くらいまでは佐川の中心地であったが、自動車の通行に適した道が北側に通ったためについ最近まで裏通りの扱いとなって開発されず、それが幸いしてこの街並みが残されたと思われる。
中山道の間の宿・茂田井と似た成り立ちと言えるだろう。
街並みも茂田井の縮小版といった感じだ。
茂田井訪問時のブログ

土居屋敷跡 前回のゴール地点の佐川駅前を過ぎ、我が母校・佐川中学校跡のグラウンドの前を過ぎ、猿丸峠という小さな峠を登り初めてすぐに「土居屋敷跡」という碑があった。
元和元(1615)年の一国一城令で佐川城が廃された後、この地に土居という藩庁の佐川支所のような屋敷が置かれたということだ。
ここは中学の野球部時代のランニングコースだったが、そんなこと全く知らなかった。

斗賀野峠に向かう道 猿丸峠を越えて斗賀野の1本道を真っ直ぐ進むと斗賀野峠に至る山にぶつかる直前で道が二手に分かれる。
「龍馬脱藩・ゆかりの道」関連市町村協議会発行のパンフレットは斗賀野トンネルを抜けるルートの右を指定しているが冗談じゃない、そんなトンネル龍馬どころか僕が高校を出るまでにも存在していなかった。
狭くて舗装も古ぼけた左の道をとって峠越えに挑むことにした。

本物の脱藩道 登り初めてすぐ、右側に「脱藩の道」と書いた小さな立て札があり、ガードレールの切れ目から茂みの中に続く細い道が伸びている。
事前情報にはなかったので半信半疑のまま進んでみると昔ながらの道がしばらく続き、やがて舗装道に合流する。
龍馬が歩いたと実感できるこんな道が残っているとは、これはうれしい想定外だ。
一瞬進むべき方向を見失ったがここにも「脱藩の道」の立て札があったのでそれに従って歩くとまたさっきのようなガードレールの切れ目に立て札と細い道がある。
誰が立てたか知らないが「あんたは信用できる」。

朽木峠への道との分かれ道 これを何度か繰り返して峠の最高地点を過ぎて須崎に向かって下り始める。
すぐに右に分岐する道が現れる。
これが朽木峠を経て葉山に抜ける道だ。
龍馬が辿ったのもこちらだと思われる。
例の立て札もそちらを指示しているが先述した理由のため今回は真っ直ぐ須崎方面に下りて行く。

沿道の田園風景 道からはのどかな田園風景が見えたりもするのだが、歩いていると峠付近の石灰採掘場とふもとの工場とを行き来するダンプが引きも切らずに通り過ぎてかなり怖い。

吾桑地区 最近できたらしいトンネルを2つ避けて迂回する旧道を歩いて須崎市の吾桑地区に入る。
タバコ屋の角の路地を右に入り坂をしばらく上って今日宿泊の桑田山温泉に着いた。

龍馬脱藩・ゆかりの道 日下~佐川2012年11月25日

土佐市から佐川町に入って見える風景
高知県佐川町の実家から両親の車で今日のスタート地点、日下まで送ってもらう。
3歳の娘はそのまま車に乗ってじっちゃん・ばっちゃんと一緒にアンパンマンミュージアムへ。
秋空の下、夫婦二人で2年半振りの龍馬脱藩・ゆかりの道を歩き始めた。

日下茂平マラソン大会 左手は田んぼで右手は山。
本来ここは田舎の静かな道のはずだが、折りしも今日は「日下茂平マラソン大会」が行われていてランナーがひっきりなしに走り過ぎる。
ちなみに日下茂平とはこの地にいた伝説の忍者。
お墓もあるそうだから実在したのだろうか?
忍術を使って豪商・豪農の邸から果ては高知城内にまで忍び込んで盗んだ金品を貧民に分け与えた義賊でもあったらしい。
そのせいなのか、忍者の格好で走るランナーもいる。

歩くに従って右側と左側の山の間隔が狭まって来る。
中山道の塩尻から木曽に向かうあたりに似た感じだ。
勿論スケールはすこぶる小さいが。

猿田洞 歩き始めて1時間ほどで猿田洞という洞窟の前に着いた。
安政5(1858)年に発見された1,400mにも及ぶ洞穴だ。
安政5年といえば龍馬が江戸の千葉道場で北辰一刀流の目録を取得した年である。
脱藩はその4年後なので、龍馬もこの洞穴をのぞいたかも知れない。

棚田 猿田洞を過ぎると道はいよいよ坂を登り始める。
脱藩の道を歩き始めて最初の坂道だ。
道の山側にはランダムに色づいた木々、谷側はわずかな平面を活用した棚田。
路面が舗装されているのを除けば龍馬の時代とさして変わらないと思われるロケーションだ。

峠からの眺望 坂道は意外と長く続き、上ること50分ほどで最高地点に到達した。
特に名前はないようだが、○○峠と呼んでも良さそうな道だった。
かなり高い地点まで上ってきても樹木などにさえぎられてなかなか視界が開けなかったが、下りに差し掛かったあたりでわずかに眺望が開けて日下の田園がちらっとだけのぞけた。

木造金剛力士像 坂を下りきると土佐市に入る。
日下と代わり映えしない田舎の道を歩いていると左手に古びた山門がある。
かつてここにあった寺が廃寺となって山門だけが残っている。
そしてこの山門の中に何と室町時代の木造金剛力士像があるそうだ。
この扉を開けて見てもいいということなので恐る恐る開けてみると本当に目の前に赤黒い像が現れた。
簡単にさわれそうだ。
ありがたいやら怖いやらよくわからないが、とにかく賽銭を置いて扉を閉めた。

佐川町に入る 道は緩やかな坂を上り、その最高地点が佐川町との境界になっている。
ついに龍馬がわが故郷にやって来た。
といっても僕自身この辺りは全く来たことがない。

佐川に入って最初のカーブを右に曲がると左手に眺望が開ける。
今日一番の見晴しだ。
ここでガードレールにもたれてスーパーで買ったお握りを食べる。
もう2時近い。

佐川の農村風景 ヘアピンカーブが続く坂を下って平地に出た。
のどかな農村風景だ。
年月を経た見事な豪農の家もある。
旧家・名家といえど明日の暮らしを何ら保障されない時代だ。
彼らのなりわいがこの先も持続可能であることを祈らずにはいられない。

佐川地質館 道は佐川中心街に向かってどんどん北上する。
しかしこの先葉山を経て梼原に向かうのであれば、この途中で左折して南西方面に進むのが合理的と思われる。
前回も感じたが、このガイドブックは観光ガイド色が濃厚だ。
今回も佐川中心街の観光スポットへと誘導する意図が見え見えである。
それでも僕はこの初めて歩く道が見慣れた佐川の町にどのようにアクセスするのか知りたくてそのまま北上して行った。
佐川市街 するとガイドブックの指示は不自然に右折して佐川地質館の前に出た。
なんとも露骨ではあるが、折角なので入館してお勉強。
本物のカブトガニとオウムガイを間近で見てちょっと恐かった。

地質館を出て佐川市街地に入り佐川駅前で今日の行程を終え、そこからまた徒歩で実家に帰った。

龍馬脱藩・ゆかりの道 朝倉~日下2010年02月27日

仁淀川
おとといは羽田空港の濃霧で大混乱の末、新幹線と土讃線を乗り継いで7時間かけて高知に到着。
きのうはきのうで女房の実家の家族を桂浜に案内するはずが台風並みの大雨の中を車から降りることもできず、龍馬の銅像まで5分足らずの道を歩くだけで横殴りの雨に打たれて濡れねずみ、写真すら撮れなかった。
土佐のいいところを何も見られないままに女房の実家は次の目的地、松山へ。
やっと天気の回復した今日、高知に残った僕ら夫婦は娘を両親に預け、龍馬脱藩・ゆかりの道を久し振りに2人で歩くことにした。

四国山地の山並み 前回迷い込んでほとんど前に進めなかった朝倉城の所在を示す看板前から歩き始める。
今日のコースはほとんどが国道33号線。
これは佐川町の実家と高知市内を行き来するのに数え切れないほど車で通った道だ。
見慣れた道を歩いてもそれ程の面白みはないが、いの町に入って国道を左にそれると田園を蛇行する旧道となった。
遠く四国山地の山並みは雪を頂に冠っている。
悪くない。

いの駅近くの旧道 国道に戻り、伊野駅近くのラーメン屋で昼食をとって再出発。
こんどは国道を右にそれる。
すると旧道らしくくねった道がしばらく続く。

旧商家の喫茶店 ここいの町は昔から和紙の生産で栄えた町で、通り沿いには明治期に建てられた和紙の商家を転用した喫茶店もある。
休憩がてら入ってみようかとも思ったが、コーヒー1杯800円という店頭のメニューを見て素通りする。

椙本神社前の旧道するとこの道は右にカーブするのだが、ガイドブックはそちらではなく、直進する路地を指し示している。
その指示通りに進むと国道33号線に合流し、右手にいの町紙の博物館を見ながら歩いて“いのの大国さま”椙本神社に突き当たる。
折りしもひな祭り開催中の神社の手前にはさっき右にカーブした道が参道のごとく伸びて来ている。
こちらの方が明らかに旧道の風情がある。
龍馬が通ったのもこちらだろう。
「龍馬脱藩・ゆかりの道」関連市町村協議会というところが出したこのガイドブックが明らかな旧道ををそれて国道に合流させたのは、いの町自慢の紙の博物館に誘導したかったからではないかという疑念が芽生えてくる。

仁淀川 間もなく国道33号線は仁淀川を渡る。
高知の川というと四万十川が全国的に有名なようだが僕はこの仁淀川の方が好きである。
上流の渓谷美はもちろんだが、かなり下流のこのあたりでも水は透き通って山の緑を映し、水面では白鷺が羽を休める。
対岸には龍馬の時代にも確実にあったと思われる古木が林立して迫力がある。

ここからは国道33号線をひたすら歩く。
途中歩道スペースのほとんどないところもあり、楽しいウォーキング・コースとは言いがたい。

小村神社日高村に入ると国道から右に垂直に伸びる杉並木が見えてくる。
地元では“千本杉”と呼ばれている見事な杉並木だ。
その並木の先に1400年の歴史を誇る小村神社が鎮座する。
現存の建造物がいつのものなのかわからないが、土俗性の高い神社ならではの霊的な雰囲気は十分に感じられる。
社殿背後の樹齢千年の牡丹杉の威容もその雰囲気に一役も二役も買っている。
規模は全く比較にならないが、日光東照宮よりも厳かな気分になれる場所だ。

国道33号線をさらに進み日下橋の手前で左にそれる旧道を行くのが龍馬脱藩の道。
ここから先は次回ということにして国道をまっすぐに進み、日下駅へ。

龍馬脱藩・ゆかりの道 朝倉城2008年01月03日

朝倉城詰ノ段から高知市街を望む 画像
高知市内の病院に向かう両親の車に同乗して朝倉駅前で降ろしてもらう。
もう午後4時近く、陽は傾き始めている。
どうせ家にいてもヒマだから日没までに大晦日の続きをちょっとでも歩いておこうということで、電車通りを歩き始めるとすぐ左手に「朝倉城跡」の看板が。

石畳の山道 画像 「こんなところに城あったっけ?」といぶかしがりながら、「折角だからちょっとだけのぞいて見るか」と路地に入ると突如として本格的な石畳の山道が現れた。
「おお!」
引き込まれるようにその道をたどって山の中へ中へと登って行く。
すると山一面に密生する竹薮の中に堀らしきくぼみや、曲輪らしき平面が現れてくる。

朝倉城詰ノ段 画像 薄暗い山道をたどった末に視界が開け、主郭らしい平地に出た。
そこにあった説明板によるとここは「詰ノ段」と呼ぶらしい。
天文年間に土佐中央部に一大勢力を築いた本山氏の城で、永禄6年(1563)に長宗我部氏によって落とされたということだ。
詰ノ段の周りには石垣や井戸も残っている。
朝倉城の石垣 画像 高知市街も見渡せる。
こんなところにこんな本格的な城跡が残っているなんて、ぜーんぜん知らなかった。
野ざらしなので探検の面白さもある。
もしかして高知城より面白いかも!

帽子パンと女房 画像 帰りは来た道をとらず山の反対側に下りたため場所がさっぱりわからず、もの凄い大回りをして結局朝倉駅に戻った。
午後6時、辺りは真っ暗。
今日1日全く先には進まなかったわけだ。

女房は途中で見つけたパン屋で高知名物帽子パンを買ってご満悦。